「雑賀孫市」は、雑賀衆と呼ばれる鉄砲の技術が非常に優れた鈴木氏が代々名乗っていた名前とされています。
死に際やその生涯をはじめ、そもそも「雑賀孫市」は誰だったのか、非常に謎の多い人物です。
この記事では「雑賀孫市」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「雑賀孫市」とは?簡単に説明
「雑賀孫市」は、戦国時代に活躍した鉄砲の技術に特化した傭兵一団であった鈴木氏が代々受け継ぎ名乗っていた名前だとされています。
「鈴木孫一」や、「平井孫一」とも呼ばれ、その一族は分かっていない事が多く、誰の事を「雑賀孫市」と言ったのかという根本的な問題さえ諸説あるのが現状です。
当時の文献に「雑賀孫市」の記載がいくつか存在しますが、1573年に起こった石川合戦の際に、鉄砲隊を率いて織田軍を苦しめた「鈴木茂秀」ではないかという説が一般的です。
その他にも豊臣秀吉に仕えたとされる「鈴木重朝」であったとされる説、紀伊国衆として活躍した「鈴木重意」を指している説など多くは「鈴木氏」に関連する人物が挙げられます。
生涯についても謎が多く、唯一和歌山県に「雑賀孫市」の墓と伝わる物が存在します。
「雑賀孫市」の死に様
「雑賀孫市」の死に様は、そもそも「雑賀孫市」が誰であったのかという謎が存在するため、数多くの諸説があります。
一般的に「雑賀孫市」とされている「鈴木茂秀」は、石川合戦において鉄砲隊の総大将として参戦し、織田信長を大いに苦しめたとされていますが、この石川合戦において戦死したのではないかという説が存在します。
他にも秀吉によって行われた雑賀攻めの際にその家臣であった藤堂高虎によって殺害されてしまったとされる説、更には関ケ原の戦いにも参戦したという説など、その存在した年代や仕えた当主にも多くの諸説があります。
これは、「雑賀孫市」事体が代々受け継がれた名前で一個人を指す名前ではないため、数々の逸話などが混ざってしまっていると考えられます。
「雑賀孫市」の死に様の信憑性
そもそも誰が「雑賀孫市」であったかという事が判明していないため、その死に際の信憑性は低いと言えるでしょう。
当時の文献や書物に、「雑賀孫市」と疑われる人物の記述などはいくつか存在しているのですが、その明確な死因や死没した年月日などの情報については皆無に等しく、「雑賀孫市」という名前自体が継承されていく名前であったことから、その死因や死に際についても諸説あるのは当然と言えば当然かもしれません。
「雑賀孫市」の小ネタ等
「雑賀孫市」と言えば「ヤタガラス」の紋が有名で、当時としては珍しかった火縄銃を数千丁取り揃え、その扱いにも非常に慣れていたそうです。
そもそも「雑賀孫市」率いる「雑賀衆」は大名などではなく、傭兵として活動していたとされています。
まとめ
「雑賀孫市」は鉄砲技術が優れていた「雑賀衆」を率いていた、鈴木氏が代々受け継いだ名前とされています。
そのため、一個人と特定するのが難しく、誰の事を指しているかさえよくわかっていないという事になります。