「板倉勝重」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「板倉勝重」の死に際とは?日本の人物

名奉行として主君からも民衆からも絶大な支持を得ていた「板倉勝重」はどのような最期をむかえたのでしょうか?

この記事では、「板倉勝重」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「板倉勝重(いたくら かつしげ)」とは?簡単に説明

「板倉勝重」は、「板倉好重(いたくら よししげ)」の次男として誕生します。

幼少の頃に出家し、永安寺の僧侶となりますが、父と弟が相次いで討死します。

そこで、「徳川家康」の命により家督を相続するために還俗し、武士となりました。

「徳川家康」に付き従い、主君が駿府へ移ると駿府町奉行に、関東に封じられると江戸町奉行に任命されます。

「関ケ原の戦い」後は、京都所司代に任命され、京都並びに京都周辺国の裁判を担当します。

その後も2代目将軍「徳川秀忠」の代を跨ぎ、京都所司代の職務を19年に渡って務め上げました。



「板倉勝重」の晩年と最期

「板倉重勝」は元和6年(1620年)に、後任として長男の「板倉重宗(いたくら しげむね)」を推挙し、長年務めてきた京都所司代の任を辞職しました。

辞職後は隠居生活に入り、寛永元年(1624年)4月に京都堀川の邸宅にて生涯の幕を下ろします。

享年79歳でした。



「板倉勝重」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「板倉勝重」にまつわるエピソード

最期に「板倉勝重」にまつわるエピソードをご紹介します。

名奉行「板倉勝重」

行政や司法を取り扱う奉行職を歴任していることから、政治的手腕において「徳川家康」から多大なる信頼を寄せられていました。

また、犯罪事件の検視においても、その才腕の高さが伺えます。

縄で首が絞められた死体を見て「板倉勝重」は他殺と推測しました。

理由を問われると、「縄目の血の寄り具合で自分で首を括ったか、他人に絞殺されたかが分かる」と説明したそうです。

別の殺人事件の検視の際、「板倉勝重」「生前に殺したのではなく、死体を工作してある」と述べました。

理由を問われると、「死後に刀痕を加えると内側に皮が捲れるが、生前に刀痕を加えると外側へ開く」と説明したそうです。

板倉政要

「板倉勝重」の名奉行ぶりは主君のみならず、民衆からも絶大な信頼を獲得していました。

また、長男であり後任を務めた「板倉重宗」も同じく、名奉行として評価が高かったようです。

公正で了然たる善政を執り行った親子の裁定内容や逸話は、「名奉行」というヒーローを望む後世の民衆たちにより、真実と虚構を織り交ぜられながら「板倉政要」としてまとめられ、伝えられました。

まとめ

「板倉勝重」は、「徳川家康」の下で各奉行職を務めた後に京都所司代に任命されます。

19年に渡り京都所司代を務め上げた後、後任を長男である「板倉重宗」に譲り、自身は隠居します。

その後、京都堀川の邸宅にて79年の生涯を閉じました。

その政治的手腕や才覚は「徳川家康」のみならず、民衆からも絶大な信頼を得ていました。

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