「米原万里」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「米原万里」の死に際とは?日本の人物

ノンフィクション作家や小説家として知られる米原万里(よねはらまり)は、56歳という若さで亡くなっています。

今回は、ロシア語の同時通訳などでも活躍していた彼女の死因に迫ります。

「米原万里」とは?簡単に説明

昭和25年に東京都中央区で生まれた米原万里は、「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」などの著作で知られる小説家で、幼いころから学んでいたロシア語の同時通訳においても素晴らしい活躍をしていた人物でした。

小学校低学年の時に、父の赴任に合わせてチェコのプラハに移住した米原は、ソビエト学校に入学してロシア語を学び、18歳の時に帰国しています。

大学在学中に実父が代表を務める日本共産党へ入党した米原は、その後ロシア語講師を経て、ロシア語圏に住む要人の同時通訳に携わり、平成期に入ってからはロシアを舞台にした小説を描き始め、講談社エッセイ賞や大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞しています。

晩年は作家業に加えて、テレビのコメンテーターとしても活躍していましたが、平成18年5月25日、神奈川県の自宅にて56歳で死去しています。



「米原万里」の死に様

平成18年5月、神奈川県の自宅で亡くなった米原万里は享年56歳でした。

死亡する3年ほど前に、卵巣嚢腫(のうしゅ)を患い、内視鏡による摘出手術を受けましたが、手術前に嚢腫と疑われていたものが、実際にはがんであったことが発覚しています。

自身がんに侵されていることを知った米原は、患者自らが納得する治療法を選択することができるセカンド・オピニオンを求めますが、担当医師から診療情報の提供を拒否されています。

自分が納得できる治療法でがんを治すことを決意していた米原は、その後入院していた病院を代えて転院した先の病院で新しい治療法を試しますが、2年後には左そけい部リンパ節へがんが転移してしまい、リンパ節すべてと卵巣や子宮などを切除することになります。

その後も様々な治療法を求めて転院を繰り返しますが、最期は自宅にて56歳という若さで息を引き取っています。



「米原万里」の死に様の信憑性

53歳の時に卵巣のがんを罹患した米原万里は、死亡するまでの3年弱の間、患者自らがんの治療法を選択することができるセカンド・オピニオンを求めて様々な治療法を探し求め、実際に自身の身体で試し続けました。

信頼していた担当医師から自身の治療法の選択を拒絶されたことで、その後自ら新しい病院を探し、3カ月で約156万円を要する「活性化自己リンパ球療法」を試みますが、最初の手術から1年4カ月後には左そけい部リンパ節へがんが転移していることが発覚しています。

その後も自身で発掘した「血液浄化の食餌療法」やハイパーサーミアと呼ばれる「温熱療法」などの様々な治療法を試し続けますが、どの治療法もあまり効果はなく、最終的には抗がん剤による治療を選択しています。

抗がん剤を投与した直後の1週間は凄まじい吐き気や嘔吐などに悩まされていた米原でしたが、最期はがんに屈することとなりました。

「米原万里」の小ネタ等

自身がんに侵されてから、様々な治療法を求めていた米原万里は、実際に自身の身体を使ってあらゆる治療方法を試していましたが、その留まることを知らない探求心が過ぎたことにより、担当していた医師から「治療費は全額返すから、もう来るな」などと言われながら厳しい闘病生活を送っていたと言います。

まとめ

幼いころから学んでいたロシア語を駆使しながら同時通訳などで活躍していた作家の米原万里は卵巣がんを罹患し、56歳で他界しています。

当時まだなじみの薄かったロシアを舞台にして描いた数々の小説は、令和時代においても貴重な文献として重宝され続けています。

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