「小野妹子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小野妹子」の死に際とは?日本の人物

「小野妹子」とは?

小野妹子の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「小野妹子」とは?簡単に説明

小野妹子に関する有名な事績というと607年に遣隋使として中国に渡ったことです。

この時、聖徳太子から託された「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

恙無しや」
という有名な手紙を隋の皇帝・煬帝に渡し、激怒されるという話は有名です。

なんとか死罪は免れて帰国の途につきますが、その途中で皇帝からの返書を盗まれるという失態を演じます。

その罪で流罪を命じられますが、推古天皇のとりなしでこの時も罪を免れ、翌608年には再び遣隋使として海を渡っています。



「小野妹子」の晩年

その後の妹子は遣隋使としての任務を評価され、冠位十二階の制の中でも最上位にあたる「大徳」の位を授けられます。

また、2回目の遣隋使の時は8人の留学生・留学僧を同道し、大陸で学んだ彼らはやがて日本に帰国して大化の改新で活躍することになります。

妹子の晩年は出家して小野専務(せんむ)を名乗り、聖徳太子が創設したと言われる六角堂に初代住職として入ります。

この六角堂の北側には聖徳太子が浴した池があったとされ、その池のとなりの僧侶の住まい(坊)が池坊と呼ばれるようになり、ここで始まった華道が池坊の起源となります。

そのため、妹子はそれにちなんで華道の祖と呼ばれています。



「小野妹子」の死に様

小野妹子の生没年は不詳です。

晩年は出身の近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県滋賀郡志賀町)に戻り、余生を送ったとされています。

没年については不詳ながら、西暦669年6月30日永眠説というのがあります。

これは大正13年に書かれた「池坊由来記」によるものです。

なお、妹子の墓は2つの説があって、一つは大阪府南河内郡太子町の王家(王陵)の谷にある墓、もう一つは滋賀県大津市小野にある唐臼山古墳です。

妹子の出身地及び晩年を過ごした地が近江国滋賀郡小野村であることから唐臼山古墳の方が有力視されていますが確証無く、どちらが本物かは定かではありません。

「小野妹子」の死に様の信憑性

小野妹子の死に関しては、遣隋使の任務以降、「日本書紀」にも記載が無いため全く不明で、確証となるものもありません。

「池坊由来記」の西暦669年6月30日永眠説についても本当なら当時としては少し長生き過ぎる感もあり、信憑性から言えばほとんど低いと言わざるを得ません。

まとめ

小野妹子の死に関する現存する記録が無いため没年や死に様は不明ですが、聖徳太子の信頼も厚く、偉大な人物であったことは紛れもないようです。

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