「穴山梅雪」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「穴山梅雪」の死に際とは?日本の人物

武田二十四将の一人としても数えられる「穴山梅雪」ですが、武田家の衰退の末にどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「穴山梅雪」の生涯と最期について分かりやすく解説していきます。

「穴山梅雪(あなやま ばいせつ)」とは?簡単に説明

「穴山梅雪」とは、穴山氏7代目当主の戦国武将で、「穴山信君(あなやま のぶただ)」の名でも知られています。

「武田二十四将」に一人として数えられるように、もともと甲斐武田氏の家臣として仕えていましたが、「武田信玄」の死後、息子の「武田勝頼」から離反しました。

「穴山梅雪」は、永禄4年(1561年)、「武田信玄」「上杉謙信」のあいだで起こった「第四次川中島の戦い」にて、武田軍本陣の防衛を担いました。

武田軍と徳川軍のあいだで起こった「三方ヶ原の戦い」において戦功を挙げるなど、外交のみならず戦場においても活躍を果たしたと記録されています。

「武田信玄」が没した後、「穴山梅雪」は甲斐武田氏を継承した「武田信玄」の息子「武田勝頼」に仕えます。

天正3年(1575年)に、武田軍と織田・徳川連合軍のあいだで「長篠の戦い」が起こります。

「甲陽軍鑑」「甲陽軍監末書」などの記述では、「穴山梅雪」はもともと「織田信長」との戦に反対の姿勢をとっており、逆に「織田信長」との決戦を強く望んでいた「武田勝頼」と不仲が生じていたそうです。

それが原因か、「長篠の戦い」においても消極的な姿勢だったと記されています。

「長篠の戦い」における「穴山梅雪」の行動については、武田家重臣の「高坂昌信(こうさか まさのぶ)」「責任を取って自害させるべき」「武田勝頼」に進言するも、取り下げられました。

その後、「穴山梅雪」は息子の「勝千代」「武田勝頼」の娘とのあいだに婚姻を結んでいましたが、これが取り消しとなります。

これがきっかけとなり、「武田勝頼」との不和が大きくなり、「甲州征伐」に乗り出していた織田・徳川方への転身へ繋がったと言われています。

天正10年(1582年)、甲斐へ侵攻してきた織田・徳川勢に対して、「穴山梅雪」「徳川家康」を通じて「織田信長」に寝返りました。

その後、まもなく甲斐武田氏は滅亡します。

織田方への転身に成功した「穴山梅雪」ですが、同年に「本能寺の変」が発生します。



「穴山梅雪」の最期

「本能寺の変」発生後、「穴山梅雪」「徳川家康」に同行していました。

明智軍の追撃から逃れるために決行した「伊賀越え」の最中、「穴山梅雪」は命を落とします。

一揆衆や落ち武者狩りに襲われて殺害された説や、襲われた末に自害した説が挙げられています。



「穴山梅雪」の死に様の信憑性

「本能寺の変」発生後、帰国の途中に宇治田原で一揆勢に殺害されたとされる説が一般的ですが、定かではありません。

まとめ

「穴山梅雪」とは、甲斐武田氏に仕えていた戦国武将であり、「穴山信君(あなやま のぶただ)」の名でも知られています。

「武田信玄」の死後、織田氏へ仕えますが、「本能寺の変」に際して命を落とします。

最期については、一揆衆や落ち武者狩りに襲われて殺害された説と襲われた末に自害した説が挙げられています。

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