火垂るの墓の原作者「野坂昭如」の死に際とは?
この記事では野坂昭如の晩年と死に際について解説していきます。
「野坂昭如」とは?簡単に説明
アニメ化された事で『火垂るの墓』はグンと知名度が上がり、その原作者としての再ブレイクした印象です。
小説家でああるのはもちろんのこと、政治家の時期もありました。
年輩の方にとってはそれ以上に日本テレビの『11PM』などの深夜番組で歯に衣を着せぬ発言を懐かしく思う方も多いのではないでしょうか。
昭和はテレビで無茶が許されていた時代でしたが、酔って出演、暴言を吐きまくるなど、そのさまは著名な作家とは思えないものがありました。
「大島渚」監督殴打事件後の討論会など逸話が多数挙げられます。
「野坂昭如」の晩年
なんの因縁か大島氏に続き、2003年に脳梗塞で倒れてリハビリ生活を送る事になりました。
これによりパネリストとしてほぼレギュラー格であった『朝まで生テレビ』も02年を最後に出演が途絶える事になっています。
執筆活動に専念しており、その傍ら親交のある「永六輔」氏のラジオ番組中のコーナーで近況について毎週報告がありました。
具体的な執筆活動としては『新潮45』での連載は絶筆になるまで『毎日新聞』での隔週連載のコラムを15年春まで行っています。
「野坂昭如」の死に様
2015年12月9日22時30分頃に東京都内の病院で永眠。
85歳没。
死因は心不全によるものでした。
「野坂昭如」の死に様の信憑性
12月9日の21時頃に杉並区の自宅で夫の意識がないと陽子夫人が119番通報。
緊急搬送されるも意識は回復せず、22時30分に死亡が確認されています。
03年に脳梗塞で倒れてから08年前後までの闘病生活については夫人の著書「リハビリ・ダンディ?野坂昭如と私 介護の二千日?」で垣間見る事が可能。
没後3年経過した18年12月には04年からの日記と『新潮45』で連載していた「だまし庵日記」を纏めた『絶筆』が出版されています。
同著は客観的な文が無く、野坂氏の日記を徒然なるままに纏めたもの。
それゆえに読み進めると体力の衰えから、闘病していく気力も失われていく様子を明確に読み取る事ができると言えるでしょう。
最後の日記は倒れる数時間前に書き込まれたもので急死であった事が改めてわかります。
まとめ
2015年12月9日22時30分に緊急搬送先の病院で死亡宣告されました。
85歳没。
死因は急性心不全によるものでした。
野坂氏は新聞を熟読、日記をつける事は毎日続けていたようです。
最後の日記は特段死を予兆させるものでは無い事から急死だった事が改めてわかるでしょう。
04年に散歩中に躓いて腕を骨折するなど公にされていない事も多々日記には記されていました。
また最晩年は起きる・寝る・何をするのにも体力を消耗する悲痛な叫びを読み取る事もできるでしょう。
体力の衰えは顕著でしたが、心不全の前触れとなる様な脈拍や血圧の異常はなかったようです。