「田中正造」とは、幕末から明治時代の政治家です。
彼はどのような人生を送ったのか、詳しく解説していきます。
「田中正造」とは?簡単に説明
「田中正造」とは、幕末から明治時代にかけて、村名主、政治家として活動していた人です。
日本で初めてとされる公害事件「足尾鉱毒事件」の重鎮としてよく知られています。
この事件は、明治時代初期、足尾銅山の開発により、排煙、鉱毒ガス、鉱毒水など有害物質が、栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺地域に、悪影響を与えたというものです。
「田中正造」は議員を辞職し、鉱毒被害を訴える活動を続けました。
そして、1901年、明治天皇に直訴を行いました。
途中で警備の警官に取り押さえられたことで、直訴そのものは最後までできていませんが、騒ぎとなったことで新聞の号外も出ました。
世の中の人に広く知ってもらうという意味においては成功したとも言えるでしょう。
「田中正造」の晩年
「田中正造」は、直訴の後も、鉱毒反対運動などの活動を続けました。
裁判、演説など精力的に動いていたとされますが、自分の命が長くないと悟ると、他の支援者などに挨拶をして回りました。
その途中、ある支援者の家で倒れてしまいます。
「田中正造」の死に様
「田中正造」は、議員を辞職した後も、亡くなるまで「足尾鉱毒事件」に関する活動を続けました。
しかし、自分自身の体調不良を感じていたのでしょうか。
この先命は長くないと悟り、支援者へ後のことをお願いする挨拶回りに出かけました。
実は「田中正造」は、自分の財産は、鉱毒反対運動に使い果たしていて、無一文になっていたのです。
その為、挨拶回りは、運動の資金援助を求める為だとも言われています。
いずれにしましても、このような運動はお金、時間、体力、気力とかかるものです。
支援者の家で倒れて、そのままそこから動くことができなかったのでしょう。
一か月後、その家で亡くなりました。
年齢は71才、死因は胃癌とされています。
「田中正造」の死に様の信憑性
「田中正造」は、支援者に挨拶回りをしていました。
支援者の家で倒れ、そこで一カ月後亡くなったとされています。
死因は胃癌ということになっていますが、それ以外にも理由はあったのでしょうか。
若い時から、国を相手に、警察に追われ、被害者を救済する為活動を行ってきた人です。
ストレスや過労も多々あったことでしょう。
とても、潔白な人だったと言われており、亡くなった際に残したものは、袋一つだけで、中身は書きかけの原稿、新約聖書、鼻紙、小石、日記などわずかなものでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「田中正造」の人生、死に様など簡単にわかりやすくお伝えしました。
明治時代の国会議員で、環境を守るために一生をかけて政府と戦う活動を続けた人です。
教科書で紹介されることもありますので、誰でも名前ぐらいは知っているのではないでしょうか。
元々裕福な家で生まれ、国会議員としての立場もあり、安泰な人生を送ることもできたことでしょう。
しかし、環境問題に取り組み、自分の財産を残すことなく一生を終えました。