「桑野通子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「桑野通子」の死に際とは?日本の人物

戦前の松竹・大船を代表する美女「桑野通子」の死に際とは?

この記事では桑野通子の晩年と死に際について解説していきます。

「桑野通子」とは?簡単に説明

『森永製菓』の初代スイートガールの一人に抜擢、退社後は半年ほどダンサーとして活躍しています。

その後松竹に所属し女優の道を歩んでいます。

その美貌と日本人離れしたスタイルは当時多くの男性を虜にしたと言っていいでしょう。

その1人が結婚の噂もあった「上原謙」氏。

晩年の回顧録では彼女と結婚できなかった事に対する未練が伺い知れました。

また老舗菓子店『塩瀬総本家』とタイアップしたお汁粉店や美容室を銀座3丁目に開くなど女優業以外でも当時の話題の人でした。



「桑野通子」の晩年

1942年7月27日、後に松竹で女優として活躍する事になる長女「桑野みゆき」氏を出産。

戦時下での出産で体調が心配されたもの、まだこの時点では大規模な空襲もなかったため食料事情も悪くはなく、産後の肥立ちは悪くはありませんでした。

1943年『をぢさん』で現場に復帰。

以降の映画では3歳年下の「高峰三枝子」氏がヒロインを務め、そこから一歩退いた立ち位置の女性役を演じる事が多くなっています。

終戦を迎えた事で言論統制も無くなり、新たな活躍が期待された矢先に事件は起こりました。



「桑野通子」の死に様

1946年4月1日21時23分、神奈川県鎌倉市の大船中央病院で永眠。

31歳没。

死因は出血多量によるものでした。

「桑野通子」の死に様の信憑性

戦前を代表する美人女優の一人だけに当時の訃報記事も大きく紙面を割いて掲載しており、その信憑性は高いと言っていいでしょう。

当時は2度目の妊娠をしており、子宮外妊娠による卵管破裂から大量出血を起こしたと見られます。

恐らく前兆として相当な腹痛があったはずです。

しかし1942年に「桑野みゆき」氏を出産した時も撮影中に妊娠が発覚。

それにより映画を降板しているため再度の降板は避けたく言いだし辛かったのかもしれません。

倒れてから亡くなるまでは以下の経緯となります。

1946年3月29日夕方、松竹大船撮影所で田中絹代主演映画『女性の勝利』の撮影中に突然昏倒。

しかし撮影所から大船中央病院までは5分もかからないため、速やかに搬送されて処置を受けたのは間違いないでしょう。

しかしその後3日経過した4月1日夜に亡くなってしまいました。

撮影中で人のいる場所で倒れた事、撮影所から設備の揃った総合病院まで5分もかからない距離を考えると倒れたもの条件的にはむしろ不幸中の幸いだったとも言えます。

戦前の子宮外妊娠で妊産婦が命を落とす確率は平均1. 5%程度。

速やかに処置されたのは推測できるだけに命を落としたのは不運だったとしか言い様がありません。

まとめ

1946年4月1日21時23分、神奈川県鎌倉市の大船中央病院で逝去。

31歳没。

死因は子宮外妊娠による大量出血と公表されています。

子宮外妊娠で妊産婦が死亡する場合は卵管破裂が多いもの、速やかに処置できれば命を取り留める事は可能でこれは現代でも変わりません。

大船撮影所から入院先は近いため搬送、処置ともに速やかに行われたのは間違いないでしょう。

それだけに命を落としたのは不運を感じさせます。

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