昭和のスパルタが生んだ悲劇?
「北天佑勝彦」の散り際とは?
この記事では北天佑勝彦の晩年と散り際について解説します。
「北天佑勝彦」とは?簡単に説明
ポスト「北の湖」を期待されながら、ウルフ「千代の富士」の波に飲み込まれていったのが「北天佑」に対する相撲ファンの印象でしょう。
また鹿児島出身黒豹の「若島津」対北海道出身北の白熊「北天佑」のライバル対決は当時の屈指の取組。
同時期のライバルであった「朝潮」「琴風」との出世争いも注目を集めていました。
相撲以外では「志村けん」氏の夫婦コントで「北天佑引退」のフレーズが有名。
前述したライバルや「千代の富士」を凌ぐ四股名の認知度だと言っていいでしょう。
「北天佑勝彦」の晩年
現役引退後は1990年の9月場所であり、晩年は怪我に苦しんだ事もあり、三十路に入ってすぐ現役続行を断念しています。
年寄「二十山」を襲名したのはそのタイミングでした。
その後1994年五月場所後に内弟子6名を連れ、晴れて二十山部屋を起ち上げています。
なかなか幕内力士には恵まれませんでした。
しかし2006年春には「高見盛精彦」に絡む形で「把瑠都凱斗」とともに2002年入門の「白露山佑太」が全日空の旅割のコマーシャルに登場。
人気と実力を兼ね備えた幕内力士が部屋から登場したことで二十山部屋は活気づくこととなります。
しかしその一方で親方の身体を病魔が蝕んでいました。
「北天佑勝彦」の死に様
2006年6月23日正午に永眠したと報じられています。
45歳没。
審判委員でもあり、3月の春場所に倒れ、緊急入院したことは場所中のスポーツ紙で報じられていたばかりでした。
死因は脳梗塞ではなく、腎臓癌によるものでした。
「北天佑勝彦」の死に様の信憑性
3月場所中に倒れて緊急入院した時の報道は軽度の脳梗塞であり、退院までは二週間程度と報じられていただけに、逝去のニュースに驚きを隠せない相撲ファンは多かったとも言えます。
その死は衝撃的なもので入院時の精密検査で腎臓癌が発覚しますが、既に末期的な症状だったと言います。
そして脳に生じた異変は発表された脳梗塞によるものではなく、転移性脳腫瘍で腎臓癌原発でした。
1年ほど前から血尿が出ていたことが没後に明らかになっています。
稽古量はもとよりぶつかり稽古などによる打ち身で血尿は相撲に限らず格技では普遍的にあることから放置してしまったのが、最悪の事態を招いてしまったと推測されます。
また糖尿病を若い時分から患っていたことも、少なからず影響があると言えるでしょう。
まとめ
「北天佑勝彦」は2006年6月23日正午に永眠しています。
45歳没。
死因は腎臓癌でした。
2006年3月場所中に倒れますが、当初は多発性脳梗塞で2週間の入院で退院できる予定でした。
しかし精密検査で脳の異常は腫瘍の転移によるもので、原発は腎臓癌からだったと明らかになっています。
同年初頭からは全日空のコマーシャルに愛弟子「白露山佑太」が抜擢。
人気、実力兼ね備えた幕内力士が部屋から誕生したことで今後更なる発展がファン、相撲関係者から期待されていた矢先の訃報となりました。