「細川幽斎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「細川幽斎」の死に際とは?日本の人物

細川幽斎は戦国時代の武将ですが、文化人としても知られています。

細川幽斎の晩年と最期を紹介します。

細川幽斎とは?

細川幽斎は室町幕府の幕臣である三淵晴員の次男に生まれますが、伯父で和泉半国守護を務める細川元常の養子となります。

室町幕府の将軍・足利義輝に仕えますが、義輝は暗殺されてしまいます。

そのため義輝の弟の義昭を擁立するために奔走しました。

その際には、織田信長の協力があったといわれます。

しかし、義昭が信長と対立すると、信長の家臣となって丹後国11万石を与えられました。

信長が亡くなると剃髪して幽斎玄旨と号しますが、その後も豊臣秀吉や徳川家康といった天下人に仕えています。



細川幽斎の晩年

豊臣秀吉が天下人となると、細川幽斎は秀吉から重用されました。

剃髪して家督は嫡男の忠興に譲っていますが、紀州征伐や九州平定といった戦の際には武将として参加しています。

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方しました。

石田三成方の軍勢に攻められますが、田辺城に籠城して抵抗します。

嫡男である忠興は、軍勢を引き連れて関ヶ原の戦いの前哨戦となる会津征伐に参加していました。

少ない兵で戦わなければならなかった幽斎ですが、粘り強く戦って長期戦となります。

この戦いは、後陽成天皇の勅命により講和が結ばれました。

後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王が要請したためです。

八条宮智仁親王は、幽斎の歌道の弟子の一人でした。

幽斎は田辺城を明け渡し、敵軍の将の前田茂勝の城に移動しました。

関ヶ原の戦いの本戦では、忠興が石田三成と激突し武功を上げています。

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した後には、京都吉田で幽斎は悠々自適な生活を送ったとされます。



細川幽斎の最期

細川幽斎は、1610年に京都で亡くなりました。

享年77です。

77歳という年齢は当時としてはかなり長寿なので、死因は老衰であっただろうと考えられます。

細川幽斎をめぐる逸話

細川幽斎は戦国武将でありながら、その時代随一の文化人として評価されていました。

和歌や茶道、連歌、蹴鞠など様々な芸術に秀でており、百人一首抄や衆妙集といった著作も残しています。

関ヶ原の戦いで田辺城に籠城した際には、敵側に幽斎の歌道の弟子も多かったために戦意が高まらず籠城戦が長期化したともいわれます。

また、幽斎は古今和歌集の解釈を秘伝として弟子に伝えていく古今伝授の伝承者でもありました。

幽斎の弟子であった八条宮智仁親王や後陽成天皇は、幽斎が亡くなることで古今伝授が途絶えてしまうことを危惧し幽斎を助けようとしたとも伝えられています。

その後、幽斎は八条宮智仁親王らに古今伝授を行ったようです。

まとめ

細川幽斎は、戦国武将として時代の流れを読み戦国大名・細川家の基礎を築きました。

一流の文化人としても知られており、それが関ヶ原の戦いにおける窮地を救うことにもなります。

晩年は京都で悠々自適な生活を送り、77歳で亡くなりました。

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