「秋山信友」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「秋山信友」の死に際とは?日本の人物

甲斐の虎「武田信玄」に仕え、「武田二十四将」にも数えられる「秋山信友」

彼はいったいどのような最期を遂げたのでしょうか?

秋山信友は近年の研究で実名(本名)は秋山虎繁と判明しました。

この記事では、「秋山信友(秋山虎繁)」や彼の最期について解説していきます。

「秋山信友(あきやま のぶとも)」とは?

「秋山信友」は戦国時代から安土桃山時代にかけて存在した戦国武将です。

「武田二十四将」のひとりとして、「甲斐の虎」で知られる「武田信玄」や、その息子「武田勝頼」に仕えました。

武田軍と徳川軍が戦った「三方ヶ原の戦い」では「武田の猛牛」として徳川方に怖れられたそうです。

永禄11年(1568年)から元亀4年/天正元年(1573年)にかけて「秋山信友」は、「武田信玄」に従い「駿河侵攻」「西上作戦」の遠征に参加します。

そこで、武田方に寝返った「岩村城」の城主となり、前女城主であった未亡人の「おつやの方(岩村殿)」と婚姻を結びます。

しかし、「おつやの方」「織田信長」の叔母であり、そのことが後の「秋山信友」の運命に大きく影響します。



「秋山信友」の最期

「秋山信友」「武田信玄」の死後は、息子の「武田勝頼」に仕えました。

しかし、天正3年(1575年)5月21日に、織田家・徳川家連合軍と武田軍のあいだで起こった「長篠の戦い」で武田軍は敗北してしまいます。

その後も連合軍は武田勢に対して侵攻をかけ、武田方の各城を陥落させていき、「秋山信友」が城主を務める「岩村城」を包囲します。

補給路を断たれたことによる飢餓や、抗戦するも大将や兵士を失ってしまったことにより、同年11月に「秋山信友」「織田信忠」(織田信長の嫡男)に降伏、「岩村城」は落城します。

しかし、「織田信長」「岩村城」を奪った上に、叔母である「おつやの方」を妻にした「秋山信友」、そして「秋山信友」と結婚して武田方に寝返った「おつやの方」を憎んでいました。

「織田信長」は降伏を受け入れながらも、赦免の礼に現れた「秋山信友」と岩村城将たちを捕縛し、岐阜に連行します。

その後、「秋山信友」「おつやの方」共々、長良川の河原にて「逆さ磔(はりつけ)」の刑に処されます。

享年49歳でした。

さらに、残る岩村城兵たちも皆焼き殺されてしまいました。

「織田信長」「逆さ磔」を行った理由として、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った折、「武田勝頼」は奥平信昌の妻を磔にしたため、その報復とされています。



「秋山信友」の死に様の信憑性

捕縛後、家老の大嶋長利、座光寺貞房と共に長良川にて磔されたとされています。

まとめ

「秋山信友」「武田信玄」「武田勝頼」に仕えた戦国武将です。

後に「岩村城」の城主となり、「織田信長」の叔母であった「おつやの方」を正室として迎えました。

しかし、「岩村城」は織田・徳川勢に攻められ落城します。

「秋山信友」は降伏したものの、「おつやの方」ともども「逆さ磔」にされ、処刑されてしまいます。

享年49歳でした。

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