「孝謙天皇」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「孝謙天皇」の死に際とは?日本の人物

「孝謙天皇(こうけんてんのう)」とは?

孝謙天皇の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「孝謙天皇」とは?簡単に説明

孝謙天皇は奈良時代の女帝で、第46代天皇であると同時にのちに重祚して第48代天皇の称徳天皇となっています。

父は聖武天皇、母は光明皇后です。

聖武天皇には早世などによって跡を継げる男子がいなかったため、唯一の皇女である安倍内親王が聖武天皇からの譲位で孝謙天皇として即位します。



「孝謙天皇」の晩年

孝謙天皇は母の光明皇后の看病のためなどを理由にして758年(天平宝字2年)に淳仁天皇に譲位し、自らは孝謙上皇となります。

しかし、761年に自分も病気のため倒れます。

その際に孝謙上皇を看病し治癒させるのがそのころ宮中を出入りしていた僧侶の道鏡でした。

道鏡はこの功により、上皇の一番のお気に入りとなり、重用・寵愛を受けることになります。

この状況を案じた藤原仲麻呂や淳仁天皇は孝謙上皇と道鏡の2人の追放を狙ってクーデターを起こしますが失敗します。

藤原仲麻呂や淳仁天皇の処分を終えると孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、以後道鏡を信任して重用します。

道鏡を太政大臣禅師に任じ、次いで法王にして2人のによる二頭政治が始まります。

やがて道鏡は皇位につこうとしますが、和気清麻呂によって失敗します。



「孝謙天皇」の死に様

孝謙天皇(称徳天皇)は770年2月の由義宮行幸の翌月に発病して床に伏せ、770年8月28日(神護景雲4年8月4日)に平城京西宮神殿で天然痘のため崩御します。

享年53歳でした。

「孝謙天皇」の死に様の信憑性

孝謙天皇(称徳天皇)の死因が天然痘だったかどうかは詳しくは分かりませんが、奈良時代はよく天然痘が流行して多くの人が死んでいますので、可能性はあるでしょう。

ただし、信憑性は必ずしも高いとは言えませんが、孝謙天皇(称徳天皇)が病死である可能性は高いようです。

「孝謙天皇」の小ネタ等

孝謙天皇(称徳天皇)の病気・死因についてはとんでもない話があります。

鎌倉時代に書かれた「古事談」に孝謙天皇(称徳天皇)の広陰説、道鏡の巨根説という噂の元になった話です。

称徳天皇は道鏡の身体では飽き足らなくなり、自分で芋を彫って道鏡の張り型を作ったと書かれています。

そしてそれを使っている最中に抜けなくなり、取ろうとした尼を藤原百川が斬ったことが原因で称徳天皇は衰弱して亡くなったというものです。

もちろん、まったくのデマですが、称徳天皇と道鏡のスキャンダルは世間の注目の的だったようです。

まとめ

孝謙天皇(称徳天皇)は770年8月28日(神護景雲4年8月4日)に天然痘のため享年53歳で崩御しています。

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