「大鵬幸喜」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大鵬幸喜」の死に際とは?日本の人物

大相撲の歴史の一ページを司る大横綱「大鵬幸喜」の死に際とは?

この記事では大鵬幸喜の晩年と死に際について解説していきます。

「大鵬幸喜」とは?簡単に説明

言わずとしれた『巨人・大鵬・卵焼き』に登場する横綱。

剛力の「柏戸」と技術の「大鵬」によるライバル対決は相撲人気の沸騰に貢献しています。

その一方で本人は大洋ファンであり、この昭和元禄のフレーズはお気に召さなかったことで有名な話です。

1956年に二所ノ関部屋に初入門。

以降引退までに優勝32回を記録し不世出の大横綱とまで言われる程になりました。

力士としての実績はもはや語るのも陳腐。

一方プロレスラーの「天龍源一郎」氏が元付け人。

彼のプロレス転向に関わっていたのは意外に知られていない事実です。



「大鵬幸喜」の晩年

不世出の大横綱でありながら晩年が不遇だと言われるのは「千代の富士」氏と同じです。

大鵬氏の場合は36歳の時に発症した脳梗塞により運命の歯車が狂ってしまいました。

病気の影響もあり相撲協会の理事長には定年まで縁がありませんでした。

定年後の2005年からは相撲博物館の館長に就任。

しかし悠々自適の生活を送った訳ではなく試練に襲われます。

自身が北オセチア共和国からスカウトしてきた「露鵬幸生」は三役・小結まで昇進するもドーピング問題で廃業。

その心労が祟ったのか同年で館長職を辞任。

三女は「貴闘力」氏に嫁いだもの野球賭博問題で同氏は相撲協会を解雇されてしまいました。

同時に離婚かつ養子縁組も解除、禅譲したはずの部屋が親方不在の憂き目に遭ってしまいます。

この間の09年には力士としては初の文化功労者に選ばれています。

しかし心労からでしょうか、急速に身体の衰弱が顕在化してしまうのでした。



「大鵬幸喜」の死に様

2013年1月19日15時15分、東京都新宿区の慶應義塾大学病院にて永眠。

72歳没。

死因は心室頻拍によるものでした。

「大鵬幸喜」の死に様の信憑性

13年12月末の『爆報!THE フライデー』 の特番で大鵬氏の晩年の状況と死に様についてが語られています。

詳細としては08年頃から身体の衰弱が顕著になり認知症の症状を発現。

これは自力呼吸ではもはや脳にまで酸素が届かないほどに心肺機能が落ちた事を意味するものでした。

酸素チューブをつけ始めたのはこの頃からです。

認知症の進行は苛烈さを増し、携帯とテレビのリモコンの判別が不能になるところまできていました。

12年に入ると身体だけでなく心臓の衰弱も進み、車椅子無しでは移動困難になりつつありました。

追い討ちをかけるかの如く13年の初場所を前に自分の出身部屋でもある二所ノ関部屋の消滅が決定。

初場所の中日前に検査入院しましたが19日の朝食後に容態が急変。

36年に渡る長く苦しかった闘病生活にピリオドがうたれました。

まとめ

2013年1月19日15時15分、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で逝去しています。

72歳没。

死因は心室頻脈によるものでした。

亡くなった当日は朝食を半分ほど口にしたもの、その後体調が急激に悪化。

長い闘病生活に幕が降ろされています。

13年12月27日の『爆報!THEフライデー』でその死に際が映像化。

亡くなる2日前の映像では安静にしていても呼吸に苦しむ姿がありました。

また孫にあたる「王鵬」氏の活躍次第では今後未公表の晩年の様子が明らかにされるかもしれません。

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