太平洋戦争のさなか病没した俊英作家「中島敦」の散り際とは?
この記事では中島敦の晩年と散り際について解説していきます。
「中島敦」とは?簡単に説明
専業作家になるも、わずか数ヶ月で亡くなってしまった悲運の小説家。
遺した作品は20作にも満たないもの、その芸術性は高く評価されています。
活躍期間の短さと遺された作品が少ないことから知名度は一般的な人には低いもの、近年では漫画・アニメ『文豪ストレイドッグス』にキャラクターとして登場。
そこから中島氏の作品を逆に読み始めた人も多いはずです。
代表作の1つ『李陵』はその舞台である中国で彼の没後に日本より早く出版され、海外での人気も高いのが特徴だと言っていいでしょう。
「中島敦」の晩年
1939年頃から喘息が悪化。
1941年3月を持って横浜での女学校の教師を休職しています。
冬になると喘息が悪化することから常夏の南洋に勤務を決め、南洋庁の国語編修書記として同年6月末にパラオへ出立しています。
しかしパラオでの生活は中島氏の思っていたものとはかけ離れたものになりました。
また出立時に「深田久弥」氏に預けた原稿も文芸誌に掲載される気配はありませんでした。
このため失意も手伝ってパラオが嫌になり、赴任からわずか半年後には本土復帰を希望。
1年経たずに帰国の路につくのでした。
「中島敦」の死に様
1942年12月4日6時に東京都世田谷区の岡田病院で死去。
33歳没。
死因は気管支喘息の悪化、ならびに喘息治療薬の使用による心臓の衰弱によるものだと言われています。
「中島敦」の死に様の信憑性
この当時の東京都世田谷区は「源内つまり大根」いわゆる“大蔵だいこん”の産地として有名。
実際問題昭和40年代前半までは田畑が広がっていたのに加えて、冷たい風が吹くことでも有名でした。
前任地のパラオに関しても暖かい気候で喘息療養に良いとして向かったもの、一年中高温多湿で細菌やカビが繁殖しやすい土壌がありました。
低気圧が弱っている心臓に影響は言わずもがな。
横浜を出立して以降は療養どころか、悪化の因子がある土地での生活になってしまいました。
また喘息治療薬として、当時既にエフェドリンが処方薬として使われる様になってはいました。
しかし喘息の症状が軽減する一方、交感神経刺激作用により心拍数が増加。
心臓に過負荷をかけることになります。
現在の喘息治療の主流である吸入ステロイドが登場するのは1950年代に入ってから。
この時代には喘息治療に良い薬がなかったこともあって、多くの著名人が喘息で亡くなっています。
中島氏もその1人になってしまいました。
まとめ
1942年12月4日6時に入院していた世田谷区の岡田病院で死去。
33歳没。
死因は気管支喘息の悪化とそれに伴う心臓の衰弱、多分にこの当時の喘息治療薬エフェドリンの濫用もあったと思われます。
温暖で喘息療養に適しているとパラオに赴任。
しかし実際には高温多湿に加え、喘息患者には天敵のカビ、低気圧の通過による気圧の変化による体調不良も加わり、症状を悪化させてしまうことになりました。
帰国後に住んだ世田谷も当時は大根の産地として有名。
田畑が広がり、沢庵を作るための干された大根を日常的に見ることのできる場所でした。
寒風が厳しく喘息療養には適さなかったと言えます。
横浜で療養を望みましたが願いは叶いませんでした。