「板部岡江雪斎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「板部岡江雪斎」の死に際とは?日本の人物

その後、「豊臣秀吉」「徳川家康」の下、戦国の世を渡り歩いた末にどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「板部岡江雪斎」の最期について分かりやすく解説していきます。

「板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)」とは?簡単に説明

「板部岡江雪斎」とは、僧侶であり戦国武将だった人物です。

鎌倉幕府の執権を務めていた「北条家」、及び「北条時行(ほうじょう ときゆき)」の子孫とされている「田中泰行」の子として生まれます。

本名は「田中融成」(たなか とおなり)でしたが、後に出家して「江雪」と名乗っていました。

その才覚を「北条氏政(ほうじょう うじまさ)」に見出され、「北条氏」(鎌倉幕府執権を務めた「北条氏」とは別の家系であり、「後北条氏」とも称される)に仕えることになりました。

後に「板部岡氏」の養子となり、家督を継ぎます。

「板部岡江雪斎」の晩年と最期

「豊臣秀吉」「小田原征伐」により「北条氏」が衰退した後は「豊臣秀吉」に召し抱えられます。

「豊臣秀吉」没後は、長男が「徳川家康」に臣従していた縁で、徳川家臣に招かれます。

慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」では徳川方の「東軍」に与し、徳川家重臣たちとともに「小早川秀秋(こばやかわ ひであき)」を説得し、寝返りを促しました。

「関ケ原の戦い」での功績として、「徳川家康」は知行加増を恩賞として与えようとしますが、「板部岡江雪斎」はこれを辞退します。

「徳川家康」は代わりに、馬好きだった「板部岡江雪斎」「馬飼領」を恩賞として与えたそうです。

江戸幕府が開かれた後も「徳川家康」の近侍として仕え、慶長14年(1609年)に伏見の地で病没します。

享年69歳でした。

「板部岡江雪斎」の死に様の信憑性

「板部岡江雪斎」は病没したとされていますが、具体的な死因については定かではありません。

「板部岡江雪斎」にまつわるエピソード

各大名にその才気を買われていた「板部岡江雪斎」ですが、有名な「しくじり話」があります。

元亀4年(1573年)に「武田信玄」の死去とともに、その噂が流れます。

「板部岡江雪斎」は主君の命を受け、噂の真相を探りに武田氏の元を病気見舞いの名目で訪問しますが、このとき「武田信廉(たけだ のぶかど)」(武田信玄の弟)が影武者として対応します。

「板部岡江雪斎」はこれを見抜くことができず、主君に「武田信玄」生存の報告をしてしまったそうです。

まとめ

「板部岡江雪斎」とは、僧侶でかつ戦国武将だった人物です。

僧侶でありながら、才覚を見出され「北条氏」(後北条氏)に仕えることになります。

「北条氏」没落後も、その才覚を気に入った「豊臣秀吉」「徳川家康」らに召し抱えられました。

晩年は「徳川家康」の近侍として仕え、慶長14年(1609年)に伏見にて病没します。

享年69歳でした。

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