一乗谷黄金期を築きあげた「朝倉孝景」その晩年とは?
この記事では朝倉孝景の死に際、そして晩年について解説していきます。
「朝倉孝景」とは?簡単に説明
朝倉孝景は朝倉氏10代当主、朝倉義景の父です。
織田信長の前に一乗谷を灰塵とされた義景を息子に持つため、あまり日本史に詳しくない方から見ればどうしても低く、不当に評価されがちだと言っていいでしょう。
7代目の曾祖父を憧れの人と捉えたのでしょう『孝景条々17か条』天下一の極悪人の先代孝景の名を継いでいます。
名将朝倉宗滴の補佐を受けることができたのも大きく一乗谷を繁栄させたのは勿論、周辺諸国に積極的に出兵するなど軍事面にも関与し、まさに“富国強兵”を実現させた当主でした。
「朝倉孝景」の晩年
孝景は晩年体調を崩していたとも言われていますが、もともと軍事面においては宗滴が総大将を長年務めており、各地への出兵も自身は出陣しなかったと言われています。
また病を患っていた証として政務面の重要書類の発給が死去前の数年は明らかに減っていることもその証と言えるはずです。
晩年の孝景は朝倉氏のお家芸とも言える内紛の処理と母の出身である越前へ逃亡してきた土岐頼純を美濃守護にするために働きます。
しかし軍事面では宗滴がやはり最前線で戦い自身は出陣することはありませんでし軍事面で積極的ではありませんでしたが、 若き頃から公家文化に情景を持っていた孝景は晩年においても儒学、神道、医学、雅楽、連歌と様々な分野から越前に下向させていました。
一乗谷朝倉氏の絶頂期、加えて孝影は領土拡大志向もなかったこともあり、ライフワークとして晩年もなお一乗谷文芸の拡大を続けていきます。
「朝倉孝景」の死に様
天文17年(1548)波着寺に参詣した帰りに急死、享年56歳のことでした。
「朝倉孝景」の死に様の信憑性
孝景は波着寺への参詣の帰りに急死したと記載されていることは多いですが、具体的な死因については不明です。
3代目の朝倉貞景も鷹狩の帰りに急死しているため不穏なものを感ぜずにはいられません。
ただし孝景は晩年病気がちで臥せることも多かったとされ、武家文書の一つである“判物”の直状が極端に減っていることもその証だと言っていいでしょう。
前田利家のもと波着寺は金沢にその場所を召し寄せられ重用することになりますが、元々は福井にありました。
越前朝倉氏の庇護を受け、朝倉甲斐両氏による合戦等の記録もあり、孝景の死自体に関しては信憑性は高いと言えます。
まとめ
朝倉孝景は晩年出家するとともに病気がちで政務面、軍事面ともに宗滴が実務を担当していた可能性が高いと言えるでしょう。
朝倉孝景の死に関しては記録が残されていた 波着寺はこの当事福井にあり越前朝倉氏の比護下にありました。
死因に関しては不明ですが、その死についての信憑性は高いと言えます。
孝景は急死したとはいえ、嫡男の義景は成人しており、後見人として宗滴の存在もありました。
義景は小笠原流弓術に優れており、芸事が好きではなかったとはいえ、兵法を粗末にしていた訳ではなかったですから、後顧の憂いはなかったはずです。