竹中重治は、豊臣秀吉の参謀として活躍した武将です。
竹中重治の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
竹中重治とは?
竹中重治は、美濃の斎藤氏の家臣であった竹中重元の子として誕生します。
父の死によって家督を継ぎ、菩提山城の城主となりました。
斎藤義龍に仕えますが、織田信長が美濃に侵攻してくるようになります。
重治はその織田軍を撃退し、侵攻を防ぎました。
しかし、義龍が亡くなり龍興が跡を継ぐと信長の美濃への侵攻は激しさを増し、斎藤家は滅亡しました。
浪人となった重治に目を付けたのは信長で、家臣にしたいと考えます。
そこで勧誘を命じたのが豊臣秀吉でした。
重治は信長と秀吉に仕えることとなり、その後は参謀として活躍するのです。
竹中重治の晩年
竹中重治は織田信長と浅井長政が敵対関係になった折、浅井方に組していた武将たちを寝返らせるなど調略活動によって手柄を立てました。
重治は斎藤氏が没落した際、浅井長政の客分として仕えていたことがあります。
3,000貫の禄を得ていましたが、1年程で禄を持して隠棲生活を送ります。
その際に浅井家の家臣達と築いた人脈を生かし、調略に成功したのです。
重治は、浅井長政と織田信長が直接ぶつかった姉川の戦いにも参戦しています。
その後、秀吉が信長から中国攻めを任された時には、秀吉に従って遠征に参加しました。
この時にも重治の調略活動が実を結び、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させます。
この功績は信長に賞賛されたといわれています。
竹中重治の最期
竹中重治は、豊臣秀吉が行った播州征伐の合戦の際に亡くなります。
三木合戦と呼ばれる戦いの最中で、播磨三木城に籠城している別所氏を兵糧攻めによって攻略しようとしていた時でした。
戦死したのではなく、病を得て亡くなったといわれています。
享年36でした。
竹中重治をめぐる逸話
豊臣秀吉の参謀として知られる人物に、竹中重治の他に黒田官兵衛もいます。
重治の通称は半兵衛だったので、官兵衛と共に「両兵衛」と称されました。
重治は官兵衛の息子である松寿丸(後の黒田長政)を救ったことがあります。
それは荒木村重が信長に謀反を起こした時のことで、村重の元に説得に行ったのが官兵衛でした。
しかし、逆に説得は失敗に終わり逆に拘束されてしまいます。
官兵衛は村重に寝返ったと疑われ、怒った信長は官兵衛の子の松寿丸を殺害するように命じたのです。
そこで機転を利かせた重治は、松寿丸を殺害したと嘘をつき家臣の元に匿いました。
その後、官兵衛の疑いが晴れたことで松寿丸は無事に官兵衛の元に帰ることができたのです。
官兵衛はこの時のことをとても感謝していたといいます。
まとめ
竹中重治は斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が滅亡した後は織田信長・豊臣秀吉の家臣となります。
調略活動などで手腕を発揮し、手柄を立てました。
しかし、秀吉が信長の命令で行った播州征伐の際に、病を得て亡くなっています。
享年36でした。