「野口英世」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「野口英世」の死に際とは?日本の人物

「千円札の人」でお馴染みの細菌学者「野口英世」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「野口英世」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「野口英世(のぐち ひでよ)」とは?簡単に説明

「野口英世」は黄熱病の研究などで知られる細菌学者です。

福島県に生まれますが、幼い頃に負った大火傷により、左手が不自由になってしまいます。

農作業に従事するには困難であることから、母より学問で身を立てるよう励まされ、「野口英世」は勉学に打ち込むようになりました。

15歳の頃に受けた手術により、不自由が残りながらも左手の指が使えるようになったことがきっかけで医師となる道を志すようになります。

その後、弱冠二十歳で医師免許を取得し、留学を経てロックフェラー医学研究所の一等助手に迎えられるのでした。



「野口英世」の晩年と最期

1918年(大正7年)、「野口英世」は黄熱病の病原体を見つけるために、当時、黄熱病が猛威を振るっていたエクアドルへと向かいます。

この時、黄熱病と症状が似ているワイル病の病原体を特定し、その細菌から野口ワクチンの開発に至っています(ただし、野口の理論にはワイル病との混同について反論があり、後に野口自身も研究結果から自説を否定しています)。

この功績により、「野口英世」はエクアドル軍名誉大佐に任命されました。

1924年(大正13年)になると、アフリカのセネガルで黄熱病が流行し、野口ワクチンが効かないとの報告が上がります。

1927年(昭和2年)、「野口英世」も黄熱病の研究のためにアフリカへ渡りますが、1928年(昭和3年)1月に体調を崩し、確認された症状から自らを黄熱病と診断しました。

一度は回復し、研究に復帰しますが、ラゴスにあるロックフェラー研究所本部を訪れた際に、再び体調が悪化、黄熱病と診断されてしまいます。

その後、病体は回復と悪化を繰り返しますが、同年5月21日に享年51歳で死去しました。



「野口英世」の死に様の信憑性

自身が研究していた黄熱病に侵され亡くなったとされていますが、異説も挙げられていました。

「野口英世」は1928年の1月に一度黄熱病に罹っており、回復後に再び黄熱病に罹ってしまいます。

終生免疫を獲得できるはずの黄熱病に再び罹患したことが自身にも分からず、体調の具合を尋ねた「ヤング博士」に対して、「どうも私には分からない」と答えたのが生前最後の言葉となりました。

そのため、以前に研究していた経緯もあり梅毒が死因とする説や他殺説もささやかれていたようです。

しかし、死去した「野口英世」の血液をサルに接種させた「ヤング博士」も黄熱病を発症し、死去していることや解剖結果から「野口英世」も黄熱病により死去したというのが定説となっています。

まとめ

「野口英世」は細菌研究に心血を注ぎ、その功績から千円札の肖像画にも選ばれた人物です。

幼くして左手に障害を負いながらも、勉学に励み、後に世界を股にかけて医療に貢献しました。

晩年は黄熱病の解明のためにアフリカへ渡りますが、研究の最中、自身も黄熱病を発症してしまい、志半ばで死去しました。

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