「滝川一益」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「滝川一益」の死に際とは?日本の人物

織田四天王「滝川一益」の晩年とは?
この記事では滝川一益の死に際、そして晩年について解説していきます。

「滝川一益」とは?簡単に説明

織田信長に仕えた武将の中でも際立った働きを見せ、四天王に数えられるのが滝川一益です。

生年は諸説がありますが、柴田勝家と歳はそう変わらず、丹羽長秀とは10歳違うことに驚く方も多いのではないでしょうか。

甲賀出身で鉄砲の扱いに長けている革新的な印象が強いせいかもしれません。

また近年では大人気武将である前田慶次がその一門であり、甲賀出身、不行跡で一族から追放されるなど、破天荒な武将“かぶきもの”の印象も定着しつつあります。

しかし晩年は不遇の一言に尽きる人生を歩み、間接的に本能寺の変に翻弄された人物と言えるでしょう。



「滝川一益」の晩年

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側で参戦するも羽柴秀吉に敗れ、丹羽長秀の所領である越前にて一益は蟄居することになりました。

しかし小牧・長久手の戦いが始まると既に還暦も目前でしたが、秀吉に求められ出陣します。

婿・滝川雄利が信雄の家老であること、従兄弟の益氏が前田本家筋に縁があるため前田長定、そして水軍で縁があった九鬼嘉隆を調略を期待。

蟹江、桑名城主を歴任し地の利を知った一益を起用したとも言えるでしょう。

蟹江合戦において滝川勢は重要な役割を果たすものの、信雄・家康連合の前に敗退し、またも辛酸を味わうことになりました。

一益は越前大野で隠居するも、その後秀吉に仕え、かつて織田家で東日本の大名と交渉した実績を買われ渉外を担当し、佐竹家との交渉役を務めていたことが記録に残っています。



「滝川一益」の死に様

秀吉から隠居料3000石を越前大野に拝領し、織田家時代の実績から東日本の大名との交渉役について、2年が経過した頃。

一益は所領、越前大野でその生涯を閉じることとなりました。

1586年10月21日没、生年月日が諸説あるなめ、享年62が有力とされています。

織田四天王の柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀の中では特別な逸話もない最期であり、死因もわかっていません。

「滝川一益」の死に様の信憑性

知名度の高い武将のため亡くなった日に関しては史料の信憑性は高い反面、死因に関しては記載が全く残っていません。

また拝領した越前大野に戻る際、越前大滝村で襲われ、真野霊仙寺で遺体が焼かれ大滝神社に鎧が残っている伝承が現地にはあります。

しかし失明して出家した一益のくだりが他の文献と噛み合いません。

一益が出家したのも1583年が有力で長秀のもとで蟄居して頃とされており信憑性の乏しい伝承と言えるでしょう。

「まとめ」

滝川一益は典型的な晩年を失意で過ごした人物として名前が挙がります。

さらに蟹江城合戦で前田長定を殺害し、晩節を汚したとも言われてきました。

しかしこの事件の書かれた『三河物語』自体が信憑性に乏しく、かつ一益も討ち取られそうになったと記述があります。

さらに50年ほど経過した後世に書かれた『家忠日記増補追加』でこのくだりが改変されて登場。

江戸時代中期成立の『小牧戦話』、江戸後期の『尾陽雑記』でさらに加筆がされているのが事実です。

このため一益が長定を斬った事件は信憑性に欠け、和睦中に徳川勢が裏切った長定を討った不届きを隠蔽した可能性が高いように思われます。

タイトルとURLをコピーしました