勝海舟は、幕末・明治期に大活躍した偉人の一人です。
江戸城無血開城を実現するなど多大な功績を残しましたが、その晩年や最期はどのようなものだったのでしょうか。
勝海舟とは?
勝海舟は、江戸で旗本だった勝小吉の長男として誕生します。
蘭学を学び蘭学塾を開いていたところ、大久保忠寛の推挙を受けて翻訳所に出仕することになりました。
その後、長崎の海軍伝習所で航海士の訓練を受けます。
咸臨丸の艦長となり、渡米しました。
アメリカから帰国した後は海軍の強化を掲げ、神戸に海軍操練所を設けて広く人材を集めます。
その際、軍艦奉行に任じられたのですが2年で罷免されてしまいました。
そして徳川慶喜が将軍になると、復帰して薩摩や長州との停戦交渉を任されます。
勝海舟の晩年
勝海舟は明治維新後、新政府において外務大丞や兵部大丞、参議、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官といった役職を歴任します。
伯爵にも叙爵されましたが、本人は何度か辞退しておりあまり乗り気ではありませんでした。
新政府に仕官することにも気が進まなかったといいます。
幕臣でありながら新政府に仕えることに批判的な声もありました。
その一方で、勝海舟は徳川慶喜を明治政府に赦免させることに尽力しています。
勝海舟の努力もあって、徳川慶喜は明治2年に謹慎を解かれています。
徳川宗家とは別に、家を興すことも認められました。
徳川慶喜と勝海舟は意見が対立することが多く、その関係は決して良好だったとはいえません。
しかし、このことがきっかけで二人は和解し、慶喜の息子である精を養嗣子として勝家に迎えてもいます。
精は海舟の孫娘である伊代子と結婚しています。
また、勝海舟は晩年、旧幕臣たちの世話も積極的に行いました。
就労先を見つけてやったり、資金を援助するなど生活の手助けをすることも多かったといいいます。
罪人となってしまった幕臣の家族の面倒をみたりもしています。
勝海舟の最期
勝海舟は1899年に、入浴後にトイレで倒れてしまいました。
脳溢血だったといわれており、意識不明となった後そのまま息を引き取ります。
享年77でした。
勝海舟をめぐる逸話
勝海舟の最大の功績といえば、江戸城無血開城です。
薩摩藩士や長州藩士を中心とする新政府軍と旧幕府軍が争うことになった戊辰戦争で、勝海舟は陸軍総裁という旧幕府軍の全権を任された立場でした。
新政府軍を率いているのは西郷隆盛です。
新政府軍による江戸総攻撃を前に、勝海舟は西郷隆盛と会談を行います。
その結果、戦争は回避されることになり、血を流すことなく江戸開城が行われたのです。
明治維新後、西郷隆盛は征韓論に敗れ、逆賊として討たれています。
勝海舟は西郷のことを気にかけていたといわれ、西郷の名誉を回復するために奔走しました。
まとめ
勝海舟は明治維新後に新政府で様々な役職を歴任し、徳川慶喜の赦免や旧幕臣の世話にも尽力しました。
そして77歳の時に脳溢血で倒れ、亡くなっています。