マルチロールなシンガーライター大瀧詠一の晩年、そして最期とは。
この記事では大瀧詠一の晩年と最期に迫ります。
「大瀧 詠一」とは?簡単に説明
細野晴臣、松本隆と組んでバンド「はっぴいえんど」でデビュー。
バンド解散後は細野、松本両氏らと同じく日本の音楽史に名を残すような楽曲を多くの歌手に提供。
数々の名曲を残しました。
演歌・アイドルソング・そしてコミックソングを手掛けるとともにプロデュースも手掛けています。
単なるミュージシャンの枠では収まらない多面性を持っており、音楽の系譜についての勉強をライフワークとして語っていました。
「大瀧 詠一」の晩年
2000年代に入ると機器の発達もあり、デジタルリマスターを自身の旧譜やかつてのラジオ番組の音源復刻などを行い、精力的に発表していきます。
ほぼ10年越しに渡るリマスタリングでは、ナイアガラレーベルのオーラスを飾る「EACH TIME」の30年アニバーサリー盤の発表、またNHK-FMで放送されていた「大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝」もいよいよ佳境を迎え、2014年は節目の年になるはずでした。
「大瀧 詠一」の死に様
2013年暮れも押し迫った12月30日の夕刻、突然のアクシデントがふりかかりました。
夕食後にデザートのリンゴを食べている最中に倒れ、緊急搬送されています。
当初はリンゴを喉に詰まらせたとの家族の証言でしたが、状況は深刻で救急車がかけつけた時には既に心肺停止の状態。
病院に搬送されるも意識は戻ることがなく、19時に死亡が確認されています。
倒れてからわずか1時間のことでした。
死因は解離性動脈瘤だとされ、動脈瘤が破裂したと想像されますが、詳しいことは公表されていません。
「大瀧 詠一」の死に様の信憑性
解離性動脈瘤の部位など詳細は公表されていませんでしたが、14年3月21日に開かれた関係者向けのお別れ会で妻が倒れた時の様子を明かしました。
亡くなる一週間に風邪を引いたと2日寝込んだこと、足に力が入らなく這って移動したこと、脳が疲れたと彼女に弱音を洩らしたと言います。
症状は長引かずに回復。
亡くなった当日も都心で仕事をこなし、帰宅したばかりでした。
最期の言葉は「ママ、ありがとう!」。
大きな声でそう叫んだため、リビングに駆けつけると既にグッタリとして顔面にチアノーゼが出ていたそうです。
看護師のため、救急車がくるまで心臓マッサージを続けるも意識は戻ることはありませんでした。
まとめ
大瀧詠一は2013年12月30日の18時前に自宅で倒れ、病院に緊急搬送されるも既に心肺停止の状態でした。
倒れてから1時間後の19時には死亡が確認されています。
リンゴを喉に詰まらせたとの報道もありましたが、実際には解離性動脈瘤の破裂が死因でした。
亡くなる一週間前に深刻な体調不良があったようですが数日で回復。
この時に医師の診療を受けていれば、最悪の事態は回避できていたのかもしれません。