「大久保利通」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大久保利通」の死に際とは?日本の人物

「大久保利通」は、明治維新を語る上で欠かせない存在で、明治政府の実質的な初代首相でしたが、明治11年5月14日、士族6人により襲撃され暗殺されてしまいました。

彼は何故、暗殺されるに至ったのでしょうか。

この記事では「大久保利通」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「大久保利通」とは?簡単に説明

「大久保利通」は、薩摩藩士であった大久保利世の長男として生まれ、西郷隆盛などの範士と共に学問を学びました。

体が弱かったため、武器を持っての武術は得意ではなく、学問を中心に学んでいきます。

その後、維新の三傑と呼ばれている西郷隆盛や木戸孝允らとともに、明治維新を起こし新政府を発足させ自らがその指導者として活動していきますが、その政治革命は少し強引な方法であったため、数々の政敵とも呼べる人間を作り出してしまいます。

そして明治11年5月14日、「紀尾井町の変」と呼ばれている暗殺事件が発生、49歳で亡くなりました。



「大久保利通」の死に様

明治11年5月14日、「大久保利通」は馬車に乗って自宅から皇居へ移動中でしたが、出発から30分ほどたった時、突然6名の志士により襲撃を受けます。

「大久保利通」の他に、馬車の運転手と従者が一人乗っており、従者は逃げ出す事に成功しましたが、馬の脚を切り馬車の動きを止めた6人は、まず馬車から降りてきた運転手を斬殺、馬車の中にいた「大久保利通」を馬車からひきずり降ろします。

「大久保利通」は武器を携帯しておらず、何の抵抗する事もできずに無残に惨殺されてしまいました。

「大久保利通」の身体には16か所もの切られた傷があり、そのうち8つは頭部に集中し、介錯と称して首に突き刺された刀は地面にまで到達するなど、極めてむごいものでした。

「大久保利通」の遺体を見た官僚は、肉が飛び散り、骨が砕け、頭蓋骨が裂けて脳が猶微動するのを見たと表現する程でした。



「大久保利通」は何故暗殺されたのか

暗殺を企てた6名は、「征韓論」と呼ばれる現在の朝鮮半島を支配しようという考えを持っていましたが、「大久保利通」はこの考え方には反対していました。

これが原因となって6名は「大久保利通」を暗殺したのではないかと考えられています。

「大久保利通」は自分の死の夢を見ていた?

「大久保利通」の暗殺に関連した有名な話として、自身が暗殺される数日前に悪夢を見たとされます。

その内容を聞いた前島密という官僚の話によると、西郷隆盛と口論を起こした末に西郷から追われ、崖から落ちた。

落ちた自分は脳が砕けてぴくぴくと動くのが見えたと語ったとされています。

まとめ

自らが招いた強引とも呼べる政治手法が原因となり、「大久保利通」は非常に残酷な方法で暗殺されてしまいました。

しかし「大久保利通」は日本近代化な父と呼ばれ、多大な功績を残したのは紛れもない事実と言えるでしょう。

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