「西郷隆盛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「西郷隆盛」の死に際とは?日本の人物

西郷隆盛は幕末から明治に活躍した偉人で、明治維新の立役者の一人として知られています。

どのような晩年と最期を迎えたのか紹介します。

西郷隆盛とは?

西郷隆盛は下級藩士の生まれながら、藩主である島津斉彬に見いだされました。

同じ薩摩藩の盟友である大久保利通と共に、王政復古を実現し260年続いた徳川幕府を倒します。

新政府軍と旧幕府軍との戦いとなった戊辰戦争では、総大将を務めたのが西郷隆盛です。

旧幕府軍に勝利した西郷は、勝海舟との会談によって江戸城を無血開城させるなど多大な功績を残しています。

明治維新の立役者であり、大久保利通と木戸孝允と並んで維新三傑と評されます。

出身地である鹿児島や東京の上野恩賜公園に銅像が建てられており、その人気の高さが伺えます。



西郷隆盛の晩年

明治政府が誕生した後、西郷隆盛は参議となり政治家として廃藩置県を行いました。

しかし、征韓論を巡って大久保利通とや岩倉具視と対立することとなり、辞表を提出して鹿児島に帰ります。

この時、政府内では主導権争いが激しく行われていました。

故郷に戻った西郷隆盛は、農作業をしたり狩猟を楽しんだりするなど悠々自適な生活を送っています。

自宅でのんびりくつろぐこともあれば、湯治に出かけることもありました。

しかし、鹿児島には西郷を追ってきた者などが集まってきていたので、血気盛んな若者を指導しようと私学校を設立します。

私学校では様々な教育が行われ、海外に留学するものもありました。

私学校は徐々にその存在感を増していったのです。



西郷隆盛の最期

西郷隆盛が設立した私学校を明治政府はとても警戒していました。

政府に対する不満分子が集まって、反乱を起こすことを恐れていたのです。

実際、各地で反乱がおきていました。

そして私学校と政府が武器弾薬を巡って衝突する事件が起きます。

政府に対する不平を抱く薩摩藩士の怒りは最高潮に達しており、これ以上制御するのは難しいと判断した西郷は決起の声に促される形で挙兵することを決断しました。

これが西南戦争の始まりです。

日本国内で行われた最後の内戦で、両軍ともに多くの犠牲者を出しましたが西郷隆盛は敗北しました。

そして、鹿児島城山において自決したのです。

西郷の享年49でした。

西郷隆盛の死因

西郷隆盛は自ら切腹したと考えられていましたが、最近の研究では首を打たせて自害したと考えられています。

西郷隆盛を介錯したのは薩摩藩士の別府晋介で、西郷の命令によって西郷の首を刎ねたのです。

その後、別府伸介も自決しています。

まとめ

西郷隆盛は明治政府の樹立に尽力した人物ですが、最期はその明治政府に反乱する軍の大将として自決しています。

逆賊の将として扱われていましたが、明治天皇の意向もあって汚名を返上し正三位を贈られています。

明治天皇は西郷隆盛を気に入っており、その人柄を信頼していたといわれています。

多くの人から敬愛され親しまれた人物でした。

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