生涯をかけて豊臣家に尽くした忠臣「石田三成」はどのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「石田三成」の最期について分かりやすく解説していきます。
「石田三成(いしだ みつなり)」とは?簡単に説明
「石田三成」とは戦国武将、及び戦国大名だった人物です。
幼い頃に、後の「豊臣秀吉」に才覚を見出され、家来として取り立てられます。
やがて天正13年(1585年)に「豊臣秀吉」が関白に就任すると、「石田三成」は「従五位下(じゅごいのげ)・治部少輔(じぶのしょう)」という高い位に就き、後に「五奉行」のメンバーとなって豊臣政権の一角を担うようになります。
「九州征伐」や「小田原征伐」、「文禄の役」(朝鮮出兵)など国内外の戦に参戦しつつ、「太閤検地」など内政業務や、明国(中国)との外交も担当していました。
「石田三成」の最期
「豊臣秀吉」の死後、慶長5年(1600年)に「石田三成」らは「徳川家康」を相手に決起し、「関ケ原の戦い」が起こります。
この戦いで、「石田三成」方の西軍は敗北し、「石田三成」は近江国(現在の滋賀県)へ逃れます。
村民たちはかつての領主であり、当時、善政を施していた「石田三成」に恩義を感じていたことから洞窟に匿います。
やがて、「石田三成」を匿っていることがバレてしまい、村民たちを気遣った「石田三成」は自ら身を差し出しました。
罪人として生き晒し、引き回しにされた後に斬首されます。
享年41歳でした。
「石田三成」の死に様の信憑性
京都の六条河原にて斬首の刑に処されたと記録されています。
「石田三成」にまつわるエピソード
最期に「石田三成」にまつわるエピソードをご紹介します。
豊臣秀吉との出会い
「豊臣秀吉」は、鷹狩りの帰りに喉を潤すためにある寺を訪れます。
寺の小姓は、最初に大きい茶碗にぬるめのお茶を、次にやや小さい茶碗にやや熱めのお茶を、最後に小さい茶碗に熱いお茶を入れて差し出しました。
お茶を温度と大きさで3回に分けて差し出した小姓の機転を気に入った「豊臣秀吉」は小姓を家来として召し抱えたとされています。
この小姓こそが後の「石田三成」であり、このエピソードは「三杯の茶(三軒茶)」と呼ばれています。
不屈の石田三成
処刑場へ移送中、「石田三成」は護送の者に喉が渇いたので水はないかと尋ねます。
水がなかったため、護送の者は代わりに干柿を差し出します。
すると、「石田三成」は「柿は痰(肝)の毒だ」と言って断りました。
これから処刑される者がどうして毒を気にするのかと笑う護送の者に対して、「石田三成」は「大義を抱く者は首を斬られる瞬間まで命を大事にするものだ」と毅然と答えたそうです。
まとめ
「石田三成」とは、豊臣家臣として仕えた戦国武将、並びに戦国大名です。
幼い頃に後の「豊臣秀吉」に見出され、召し抱えられます。
豊臣政権下では、「五奉行」として戦、内政、外交と多岐に渡って活躍します。
「関ケ原の戦い」で「徳川家康」と対峙するも敗北し、捕えられた後に斬首の刑に処されます。
享年41歳でした。