小林多喜二は、日本のプロレタリア文学を代表する作家の一人です。
労働運動や社会主義活動に関わり、拷問の末に虐殺されるという非業の死を遂げています。
小林多喜二の晩年と最期について紹介します。
小林多喜二とは?
小林多喜二は秋田の農家に生まれますが、4歳の時に北海道に移住しました。
小樽高等商業学校に進学し、文学の創作活動に励みます。
卒業後は北海道拓殖銀行に勤務する傍ら、プロレタリア文学運動に参加します。
三・一五事件を描いた「一九二八年三月十五日」を発表すると注目を集め、「蟹工船」や「不在地主」といった作品を次々と発表していきます。
しかし、これらの作品が問題となり勤めていた銀行を解雇されます。
その後は上京しますが、特高警察から目を付けられる生活を送っています。
小林多喜二の晩年
小林多喜二は上京すると、日本プロレタリア作家同盟の書記長に就任します。
プロレタリア文学は虐げられた労働者の現実を描く文学で、社会主義・共産主義の政治的な活動とも密接な関係があります。
そのため小林多喜二は警察から要注意人物と目されており、様々な弾圧を受けました。
日本共産党に資金を援助したとして逮捕されたり、「蟹工船」に描かれた表現の一部が不敬罪に当たるとして刑務所に収容されたりもしています。
小林多喜二の最期
小林多喜二は、1933年に特高警察によって逮捕されてしまいます。
この時、日本共産党にスパイとして潜り込んでいた三船留吉が、大きく関わりました。
三船によって特高警察が待機している場所へとおびき出されてしまったのです。
後に三船は、小林多喜二を売った男と呼ばれるようになりました。
特高警察に捕らえられた小林多喜二は、激しい拷問を受けます。
そして、逮捕されたその日のうちに亡くなりました。
警察は死因を心臓麻痺と発表しましたが、拷問によって殺されたことは明白です。
小林多喜二の亡骸は、拷問のために異常に腫れあがっていたといいます。
享年29でした。
小林多喜二の死後
小林多喜二の死後には、生前に書いた「党生活者」が遺作として発表されました。
これは地下活動を行っていた小林多喜二が、自らの生活を元に描いた作品です。
また、小林多喜二が特高警察から目を付けられるきっかけになったのは、「一九二八年三月十五日」でした。
これは三・一五事件を題材にした作品ですが、特高警察の拷問の描写が詳しく書かれていました。
それが特高警察を激怒させたといわれています。
プロレタリア文学はその後衰退しますが、再び小林多喜二の作品が評価される時が来ます。
働く世代の貧困や低賃金・長時間労働の問題は現在も抱えている社会問題です。
2008年には「蟹工船・党生活者」が再評価されベストセラーとなりました。
2009年には映画化もされています。
まとめ
小林多喜二はプロレタリア文学を代表する作家となりますが、晩年は特高警察に重要人物としてマークされていました。
そして逮捕されてしまい、拷問の末に亡くなります。