小説やゲームなどの創作物において、片目を眼帯で隠し剣の達人として描かれる事が多い「柳生十兵衛」ですが、実際の彼の生涯はどのようなものだったのでしょうか。
この記事では「柳生十兵衛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「柳生十兵衛」とは?簡単に説明
「柳生十兵衛」こと「柳生三厳」は、柳生藩藩主であり剣豪として有名であった柳生宗矩の子として1607年に生まれました。
徳川三代目将軍、徳川家光の世話係となった「柳生十兵衛」は、家光と歳も近かったという事もあり、時には家光の稽古相手を務めるなど、共に成長していったのです。
しかし理由ははっきりとは分かっていませんが、家光の逆鱗に触れ「柳生十兵衛」は謹慎を言い渡され故郷へと帰ります。
本来の謹慎の期間は1年程だったのにもかかわらず、「柳生十兵衛」は実に11年もの間、江戸に戻る事はなく、修行の日々を送ったとされています。
修行期間を終えて1637年に江戸に戻った「柳生十兵衛」は、再び徳川家光に仕える事となり側近の親衛隊として活動し、父・宗矩が死去した事を受けて、柳生藩の藩主も受け継ぎました。
「柳生十兵衛」の死に様
柳生藩藩主となった「柳生十兵衛」でしたが、1650年4月21日、現在の京都府相楽南山城村にあたる弓渕へと鷹狩に出かけその最中、急死しました。
すぐさま検死が行われたり、関係者が尋問を受けるなどしましたが、その原因は現在も不明のままです。
44歳でした。
「柳生十兵衛」の死に様の信憑性
「柳生十兵衛」の死因は、一説では脳卒中や狭心症などの突然死を起こす病気だったのではないかと考えられていますが、確定とされる記述や古書などは存在しないため、死因については不明となっています。
「柳生十兵衛」の小ネタ等
「柳生十兵衛」は創作物に描かれる際、眼帯を着けた隻眼の姿で描かれる事が多くなっていますが、実際には幼少期の稽古の際に父の木刀が目に当たった、父が投げた石が目にあたった、などの記述が基でそのように創作されたものと考えられています。
その証拠に「柳生十兵衛」の肖像画は両目がしっかりと書かれ、当時の史料等にも「柳生十兵衛」が隻眼であった事は書かれていません。
また、「柳生十兵衛」は非常に気性が荒く酒好きだったとされており、将軍家光の怒りを買った理由について酒癖が原因であったのではないかという説も存在します。
その他にも「数十人の盗賊に襲われたが、それを一人で撃退した」など「柳生十兵衛」は数々の逸話や伝説が存在します。
しかし、一部の逸話や伝説は古書や記録が存在しているものではなく、創作されたものも多くなっています。
まとめ
剣豪「柳生十兵衛」は、鷹狩に向かった先で原因不明の急死を遂げていました。
44歳という若さで藩主も継いで間もない頃だったために、志半ばであったと言えるのかもしれません。