「円谷英二」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「円谷英二」の死に際とは?日本の人物

日本特撮の父、ウルトラマンの産みの親『円谷英二』の晩年とは?その死に際も解説。

「円谷英二」とは?簡単に説明

日本の特撮の神様として言わずと知れた人物なのが円谷英二です。

しかしその手腕が多いに発揮されることとなったのは意外に遅く戦意高揚映画での特撮シーンでのことで40歳を過ぎた頃からでした。

その後はGHQの公職追放により1度は東宝を退社し困窮しますが円谷特殊技術研究所を設立。

名作『ひめゆりの塔』や『君の名は』などに携わった後『ゴジラ』を生み出します。

その後テレビ業界にも進出し、和製ミステリーゾーン『ウルトラQ』をヒットさせたのち『ウルトラマン』を生み出すのでした。



「円谷英二」の晩年と死に様

昭和44年11月に翌年の3月に開幕が迫った日本万国博覧会の三菱未来館で展示される映像を360度視界に映し出す「サークロマ映像方式」の撮影を行うために徳島鳴門ロケを行いました。

そこで体調を崩すも国際博覧会という大舞台で展示される作品のためロケを強行して余計体調を悪化。

帰京後入院を経て、その後静岡県伊東市の別荘で療養を行っています。

『ニッポンヒコーキ野郎』の脚本を書きつつ療養を続け、1ヶ月が過ぎ体調は完全に回復し1月26日には帰京が予定されていました。

しかし25日の22時に気管支喘息の発作をおこすとそのまま狭心症を起こし、26日を待たずに亡くなってしまいます。

享年68。



「円谷英二」の死が与えた円谷プロへの影響

よくも悪くも円谷英二氏は常人離れした感覚を持ち合わせたものがあり、日活や松竹では理解されず孤立し退社しています。

金銭感覚も浮世離れしており世界に2台しかないオプチカルプリンターをポンと購入した件は有名です。

一世風靡したウルトラマン、ウルトラセブンでも予算を使い切っており、前者は人気作品でありながらも実は打ち切りで最終回を迎えました。

昨今では玩具ありきのマーチャンダイズでスポンサーが番組の内容に影響を与えているのは既存の事実。

しかしそれが行われたのは英二氏の亡くなった以降の話。

英二氏は特撮の神様であれど経営には無頓着で作れば作るほど赤字を生み出すことなり円谷プロの経営を圧迫していきました。

息子の「円谷一」氏は二代目社長となり経営危機解消に奔走するも、それに伴う激務で持病を悪化させ三年後に逝去してしまいます。

それが後の『ウルトラマン訴訟』や後の同族経営の終焉にも繋がることとなっていきました。

まとめ

円谷英二氏は1969年11月に倒れ入院、翌70年1月静岡県伊東市の別荘で療養終了。

帰京を明日に控えた1月25日に気管支喘息の発作による狭心症で命を落としています。

1970年3月日本国際万国博覧会での三菱未来館でのサークロマ方式での映像上映は遺作としても話題を呼び、民間パビリオンでは最多の入場者数を記録しています。

また同年は第二次怪獣ブームの兆しが見られた時期で東京のキー局では平日に全局でウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンの再放送がされるなど新たな“ウルトラマン”の機運も高まりつつありました。

翌71年には視聴率30%超えの人気ドラマ『肝っ玉かあさん』と並び『帰ってきたウルトラマン』が昭和46年春の番組改編期のTBSの二大看板として登場しましたが、それを見ることは叶いませんでした。

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