「三橋美智也」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「三橋美智也」の死に際とは?日本の人物

「三橋美智也(みはしみちや)」とは?

三橋美智也の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「三橋美智也」とは?簡単に説明

三橋美智也は北海道出身の演歌歌手です。

「ミッチー」の愛称で親しまれ、昭和30年代前半にはミリオンセラーを連発する人気歌手でした。

代表曲は「古城」「武田節」「哀愁列車」などです。



「三橋美智也」の晩年

昭和30年代前半の全盛期には数多くのミリオンセラーを連発し、「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われたほどの絶大な人気を誇った三橋でしたが、順調でなかったのが三橋の私生活です。

貧しかった頃から苦労を共にしてきた妻の喜久子と1966年に離婚しています。

離婚理由は三橋の不倫が原因と言われており、その浮気相手である北沢啓子と再婚しています。

これを機に三橋の転落人生が始まるのです。

この不倫騒動が原因で1956年から10回連続で出場していたNHK紅白歌合戦に落選します。

また再婚相手の啓子からDV(配偶者暴力)を受けるようになります。

さらに啓子と娘、娘婿が共謀してゴルフ場の高級会員権を三橋に無断で売却するなどの財産乗っ取りも発覚します。

これが原因で1994年には東京の自宅を出て、大阪のマネージャー宅で暮らすようになります。

その上、オーナーを務めていた熱海のリゾートホテル「サン三橋」が1992年に倒産します。

これにより三橋は200億円の負債を負うことになります。

このような散々たる私生活の影響もあってか、1990年代には持病の糖尿病が悪化し、1993年1月には入院しています。



「三橋美智也」の死に様

1995年3月4日~5日にかけて三橋の後援会の旅行に参加しますが、その数日後に突然倒れます。

緊急入院して一旦は回復し、退院後の5月には阪神大震災復興支援チャリティーゴルフコンペを開いています。

しかし同年10月26日18時35分頃、滋賀県の「タカラカントリークラブ」でのゴルフの帰り道のタクシー車内で心臓発作を起こします。

直ちに大阪市西成区の「山本第一病院」に再入院しますが、その後も意識不明の重体だったため、大阪市阿倍野区の大阪市立大学医学部附属病院に転院しています。

けれども、意識が戻ること無く、1996年1月8日午前11時30分に多臓器不全のため息を引き取りました。

65歳でした。

「三橋美智也」の死に様の信憑性

三橋の死に様については、病院で最期を迎えていることから信憑性は高いと言えます。

また、三橋の私生活は当時、ワイドショーなどでも詳しく取り上げられたようですので、昔を知っている方には周知のことだと思われます。

まとめ

三橋美智也のことを調べて初めて三橋が事実上のレコード総売上枚数1位の歌手とは知りました。

テレビのランキング番組などで発表されている数字は昭和後期から平成期にかけてのもので、正確な数値が残っていない、あるいは把握できないものはランキングから除外されているようです。

まだ十分に正当な評価がされていない偉大な歌手のようです。

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