「黒田官兵衛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「黒田官兵衛」の死に際とは?日本の人物

黒田官兵衛は、戦国時代切手の天才軍師と呼ばれた頭脳派の武将です。

キリスト教を信仰し、洗礼を受けたキリシタン大名でもあった黒田官兵衛は、どのような晩年を送り最期を迎えたのでしょうか。

黒田官兵衛とは?

黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕え、側近として様々な戦略を編み出しました。

官兵衛が得意としていた戦法には、兵糧攻めや水攻めがあります。

また、築城の名手として有名で、数々の築城に関わったといわれています。

豊臣秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、黒田家は徳川家康率いる東軍に組します。

当時、すでに官兵衛は息子の長政に家督を譲っていましたが、中津城において留守居役となり城を守りました。

黒田官兵衛の晩年

関ヶ原の戦いの後、黒田官兵衛は完全に隠居し政治から離れた生活を送ります。

息子の長政は関ヶ原の戦いの功績が認められ、福岡藩52万石の藩主となります。

官兵衛も福岡の地に移り住み、福岡と京都を行ったり来たりする生活を送りました。

晩年は茶の湯に傾倒し、太宰府天満宮の境内に草庵を構えています。

現在も太宰府天満宮の境内には、官兵衛が茶の湯に使用していた井戸があります。

また、福岡城にも御鷹屋敷を構えました。

黒田官兵衛の最期

黒田官兵衛は慶長9年に、療養していた京都の伏見藩邸で亡くなります。

享年は59でした。

亡くなる半年程前に有馬温泉に行ったという記録も残っており、これも療養のためでした。

そのため体調が思わしくなかったことが分かります。

死因については病死としか分かっていませんが、本人は死期を悟っていたようで自分が死んだ後の遺言を色々残しています。

死因について梅毒だったという説もありましたが、これはあまり信憑性が高くありません。

黒田官兵衛の死後

熱心なキリシタンだった黒田官兵衛は、自分の亡骸を博多にいる神父の元に運ぶように遺言しています。

また、イエズス会に資金を提供することも遺言にあります。

この資金の一部は、教会を建てるための資金にするようにとの思いがありました。

そして官兵衛は、キリシタン墓地に隣接する場所に埋葬されています。

黒田官兵衛にまつわる逸話

黒田官兵衛は、その類まれな知略によって豊臣秀吉に天下を獲らせた男とも呼ばれています。

天下を統一するにあたった多大な功績を上げました。

しかし、それに見合った恩賞を与えられたとは言えないでしょう。

官兵衛に与えられたのは豊前中津18万石だけでした。

これは秀吉が、官兵衛の力を恐れていたためと言われています。

秀吉が家臣にそのような話を漏らしたことがあり、それを伝え聞いた官兵衛は出家したといいます。

そして如水と名乗るようになりました。

まとめ

黒田官兵衛は、政治の世界から離れ穏やかな晩年を過ごします。

茶の湯に傾倒し、太宰府天満宮の境内に草庵を作りました。

やがて体調を崩し、59歳で亡くなっています。

戦に明け暮れた人生ですが、その最期はとても穏やかなものでした。

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