映像は稀有。
昭和を生きた愛の吟遊詩人、大塚博堂の晩年と最期について解説。
この記事では大塚博堂の晩年とその最期について解説していきます。
「大塚博堂」とは?簡単に説明
大塚たけし名義で不遇なデビュー期を過ごします。
しかし港区青山のクラブ「バルセロナ」での圧倒的な弾き語りが評判となった事で博堂名義で再デビュー。
「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」は名曲で近年では白竜や尾藤イサオがカバーしています。
彼を知らない世代でも流れてくるメロディは知っていると言う人も多いことでしょう。
70年代後半から没年となった81年までにCM、ドラマ主題歌は多々使用されている反面、その映像が残っているのは稀で貴重なものとなっています。
「大塚博堂」の晩年
全国各地でステージ活動をまめに行う一方、弾き語りが評判を呼ぶこととなりました。
自身のテレビ出演はレアでしたが、楽曲を耳にすることは増えていきます。
1978年に布施明が紅白歌合戦で「めぐり逢い紡いで」を熱唱。
翌79年には大原麗子主演の夜ドラ「聖女房」にて「青春は最後のおとぎ話」が主題歌になるなど知名度をあげていきます。
80年にはNHKのイメージソング、81年はMax Factorの春のキャンペーンタイトルをそのまま曲名にした「春は横顔」をリリース。
順風満帆に年を重ねていたと言っていいでしょう。
「大塚博堂」の死に様
不遇の時代から一転、飛ぶ鳥を落とす勢いで80年代も活躍する大塚博堂でしたが、思いもよらぬ病魔によってその勢いは止められてしまうことになるのでした。
1981年5月14日の早朝目黒区の自宅マンションにて倒れ、東邦大学付属大橋病院へ緊急搬送。
入院して闘病しますが、ダメージを回復できずに5月18日に37歳の若さでこの世を去っています。
「大塚博堂」の死に様の信憑性
兄である大塚俊英氏は一周忌にあたる1982年5月1日に「博堂は風になった―大塚博堂その短すぎた音楽人生」を出版。
その他の媒体でも弟の回顧をしており、出身地である大分県の地方紙である大分合同新聞での連載コラムでは友人の医者が腎性高血圧症だと見抜けなかった事を悔やんでいる記述があったそうです。
腎臓機能の低下と高血圧は密接なのは現在広く知られている通りです。
脳内出血の遠因として腎臓病からの高血圧があった可能性は充分にあると言えるでしょう。
まとめ
大塚博堂は博堂名義での再デビュー以後は、圧倒的な引き語りの魅力に加えて、ドラマやCMの主題歌や布施明や石川ひとみ、ペギー葉山らに楽曲提供したことで知名度をあげました。
しかし1981年の5月14日に自宅マンションで倒れると回復できずに5月18日に亡くなっています。
37歳の若さでした。
死因は脳内出血であり、詳細は公表されていませんが、遠因として腎性高血圧があった可能性があります。