「谷崎潤一郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「谷崎潤一郎」の死に際とは?日本の人物

フェミニズムやマゾヒズムを掲げた作風で知られる文豪「谷崎潤一郎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「谷崎潤一郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)」とは?簡単に説明

「谷崎潤一郎」「春琴抄」「細雪」などの著作で知られる小説家です。

フェミニズムやマゾヒズムを描いた作風で有名ですが、一方でミステリーやサスペンス、歴史小説など多岐に渡るジャンルでその文才を発揮させた作品を残しています。

幼い頃より秀才と評され、東京帝国大学在学中には処女作の執筆や文芸雑誌の創刊を行っています。

20世紀前半期に発表された「谷崎潤一郎」の作品は当時の世相に反しながらも、早々に多くの評価と注目を集めていくことになります。

「谷崎潤一郎」の晩年と最期

1950年代になると高血圧症の悪化に見舞われ、右手の麻痺が起こってからは口述筆記を余儀なくされました。

しかし、その傍ら国内では文化功労者に定められ、海外ではアメリカで英語に翻訳された著作が出版されています。

7度に渡ってノーベル文学賞候補に選出され、最終候補まで名前が残っていたと云われています。

1964年(昭和39年)には日本人として初めてアメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に選ばれますが、翌年の1965年(昭和40年)7月30日に心不全を腎不全の合併症として患ったことにより、享年79歳で死去しました。

「谷崎潤一郎」の死に様の信憑性

死因は腎不全の合併症として患った心不全とされています。

「にくまれ口」「七十九の春」は生前最後の著作となりました。

3度の結婚と「谷崎潤一郎」の作品

耽美的でスキャンダラスな作品を手掛けた「谷崎潤一郎」ですが、自身も述べているように作品の多くは3人の妻たちとの生活から着想を得たものが大きいようです。

仮面夫婦を生々しく描いた「蓼(たで)食う虫」は、最初の妻「千代」との冷め切った夫婦生活が大きく影響しています。

「千代」と離婚後、「谷崎潤一郎」「丁未子(とみこ)」と再婚しますが、別に心を寄せていた愛人がいたようです。

そして、妻と愛人、2人の女性の間で揺らめく心模様は「猫と庄造と二人のおんな」で描かれました。

やがて、「丁未子」と離婚した「谷崎潤一郎」「松子」と再々婚します。

「松子」と彼女の妹たちとの生活から長編小説「細雪」が生み出されました。

まとめ

「谷崎潤一郎」はフェミニズムやマゾヒズムを通した女性崇拝が作風の特徴として知られる小説家です。

早くから国内で大きな評価を受けた著作たちは、やがて翻訳され、アメリカでも出版されることになります。

晩年には、その功績が認められノーベル文学賞の候補に挙げられ、日本人として初めてのアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に選出されました。

そして、1965年(昭和40年)7月30日に腎不全の合併症として患った心不全により、79年の生涯に幕を下ろしました。

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