「高杉晋作」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「高杉晋作」の死に際とは?日本の人物

徳川の時代から明治へと移り変わる激動の幕末において、討幕派の中心人物として活躍したのが高杉晋作です。

大政奉還・明治維新につながる多大な功績を遺した人ですが、明治政府が誕生する前に亡くなっています。

その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

高杉晋作とは?

高杉晋作は長州藩の生まれで、吉田松陰が主宰していた松下村塾で学びました。

文久2年には長州藩の命により上海に渡航しており、大きな衝撃を受けたといいます。

帰国した高杉晋作は尊王攘夷運動に加わり、次第に指導的な立場となっていきます。

高杉晋作は奇兵隊の創設者としても知られ、身分にこだわらず誰でも入隊することができる新しい軍隊を作り上げます。

長州藩では幕府に恭順する保守派と尊王攘夷派によって意見が割れていましたが、保守派を一掃し長州藩を倒幕へと導きます。



高杉晋作の晩年

高杉晋作の晩年に起きた大きな出来事といえば、幕府による長州征伐です。

倒幕を目指す勢力がひしめく長州藩に江戸幕府が制裁を加えたもので、2度行われています。

1度目は保守派が政権を握っていたため幕府に恭順し、幕府軍は戦わないまま撤退しました。

それに不満を抱いた高杉晋作は下関で挙兵し、保守派を一掃して長州藩の方針を転換させます。

2度目の長州征伐では、高杉晋作は海軍の総督として戦争の指揮をとります。

この戦いに備え長州藩は、銃器や艦船を購入するなど軍備を増強していました。

幕府軍も将軍の家茂が自ら指揮をとり、長州軍と激突することとなります。

戦いの結果は幕府側の敗北で、家茂の死によって撤退しました。

これが幕府の権威失墜を招き、大政奉還・明治維新の流れへとつながっていくのです。



高杉晋作の最期

幕府による2度目の長州征伐で長州藩の勝利に大きく貢献した高杉晋作ですが、この時にはすでに病に侵されていたといわれています。

その病気は肺結核で、当時は不治の病と呼ばれていました。

下関の桜山で療養することになります。

しかし、治療法がなかった当時は治る見込みがなく、高杉晋作は慶応3年に亡くなりました。

享年29という若さで、その生涯を終えます。

大政奉還が実現したのは、その半年後でした。

高杉晋作にまつわる逸話

療養中の高杉晋作を看病したのは、おうのという女性です。

元々は下関裏町の芸妓で、高杉晋作の愛妾として知られています。

高杉には正妻である雅子がいましたが、当時は妾を持つことはさほど珍しいことではありませんでした。

高杉はほとんど家をあけていたので、おうのと別宅で生活することが多かったようです。

しかし、妻との仲が悪かったというわけではなく、妻を気遣う手紙なども残されています。

高杉の病が重くなると雅子もかけつけ、おうのに変わって看病にあたったといいます。

まとめ

高杉晋作は29歳という若さで亡くなります。

死因は、当時不治の病といわれていた肺結核でした。

大政奉還と明治維新につながる功績を残しましたが、その実現を見る前に亡くなっています。

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