勇猛果敢さが仇となった?「松平忠吉」の死に際とは?
この記事では松平忠吉の晩年と死に際について解説していきます。
「松平忠吉」とは?簡単に説明
「徳川家康」公の側室「西郷の方」を母に持ち、他の3人の兄達とは違うほどに家康公の寵愛を受けたのが「松平忠吉」だと言っていいでしょう。
外見もさることながら文武に長けており、徳川四天王の「井伊直政」の娘政子を娶るなど期待は兄達を凌ぐほどだったと言えるでしょう。
既に1つ上の兄「徳川秀忠」に政権が禅譲される事が既定路線だったのは不遇としか言えません。
また良くも悪くもその勇猛果敢さで戦場で結果を残したがゆえに手痛い代償を払う事になりました。
「松平忠吉」の晩年
関ヶ原での名声と引き換えに義父井伊直政という強大な後ろ盾を失い、自身の健康を失うことになってしまったのは痛恨の極みと言わざるをえません。
それでも文武に秀でて人望に満ちていた忠吉の運命を変えたのは1604年の事でした。
春に体調不良を訴えると年末にはまさかの危篤状態にまで陥ってしまいました。
投薬により一命を取り留めたもの、この時代は根治的療法、外科的治療が受ける事が不可能なのは言わずもがな。
症状は悪化していくもの、湯治と投薬では症状は悪化していくばかりでした。
それでも07年に尾張を出立し、父家康、兄秀忠に面会しに江戸へと向かいます。
しかし忠吉の容態が限界に来ていたのは間違いありませんでした。
「松平忠吉」の死に様
1607年4月1日、慶長12年3月5日に江戸にて逝去。
28歳没。
もっとも知られる死因は関ヶ原の合戦時に島津勢との銃撃戦による手傷が原因になったものとされます。
「松平忠吉」の死に様の信憑性
その死に際については様々な異論諸説に加えて、陰謀論も多いのが現実です。
しかしこの時代にはちょっとした病気が不治の病でもあるだけに信憑性に関してはどれも一長一短と言ったところでしょう。
現代でも長期化して腹膜炎を併発すれば死亡する可能性のある虫垂炎ですら治療の手立てがありませんでした。
また“瘡”を傷と捉えるのか腫れ物や梅毒として捉えるのかで解釈も大きく変わってしまうため、それが死因に諸説見られる理由だと言えるでしょう。
この前後の時代に亡くなった加藤清正、浅野幸長は謎の死を遂げていますが、梅毒説が有力なのも事実だと言えるでしょう。
文禄・慶長の役に参加した武将なら梅毒説は考えられますが、この当時元服したばかりの忠吉には考えられにくいと思われます。
有力なのは散弾・鉛銃弾遺残症であり、現代のアメリカで症例のレポートがありますが、これを当時に当てはめるのは不可能。
通説になってはいますが、信憑性は決して高くありません。
1604年5月に但馬へ湯治へ向かったあたりから、体調不良が顕在化。
10月に腫物ができ12月には危篤に陥っています。
以降2年は小康状態を保ちながら湯治を施すも、07年春に力尽きてしまいました。
まとめ
1607年4月1日、慶長12年3月5日に江戸で死去。
28歳没。
死因は関ヶ原の合戦時の島津勢との戦いにおける負傷によるもの。
体内に銃弾が残り取り切れなかった事による鉛中毒と言われています。
死因は諸説あり、秀忠政権を安定化させるための毒殺、“瘡”によるもの、いわゆる梅毒、慢性虫垂炎や悪性腫瘍まで多岐に渡りますが、真相は不明と言っていいでしょう。