この記事では、「人見絹枝」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「人見絹枝」とは?
人見絹枝とは岡山県出身のアスリートで、日本人女性として初めてオリンピックメダリストとなった人物です。
日本人離れした恵まれた体格で、100m走や走り幅跳びで世界記録を樹立したこともあります。
人見絹枝は17歳で現在の日本女子体育大学の前身となる二階堂体操塾に入ります。
三段跳びややり投げ、体操など様々な種目で記録を打ち立てました。
そして1928年に出場したアムステルダムオリンピックの800m走で、銀メダルを獲得したのです。
「人見絹枝」の晩年
人見絹枝はオリンピックメダリストとなってからは、多忙な日々を送っていました。
競技者としてハードな日程で遠征を行っており、一時期競技を離れたこともあります。
また、メダリストとして有名になったことで講演会などにも招かれることもありましたし、大会に参加するための費用なども工面しなければなりませんでした。
人見絹枝には、女子スポーツを発展させたいという思いがあったようです。
海外遠征をする中で、海外では日本とは違い恵まれた環境が整っていることに衝撃を受けたといいます。
専属のコーチがつき、年間のトレーニング計画がしっかりと立てられていることに日本との違いを痛感しました。
日本ではまだ、女性がスポーツをすることに偏見もありました。
年頃の娘が太ももをさらして走るなんてはしたないという風潮があったからです。
そのため人見絹枝は、周囲からバッシングを受けたこともありました。
「人見絹枝」の死に様
ハードなスケジュールをこなしていた人見絹枝は、病に倒れてしまいます。
助膜炎を発症し、大阪の病院に入院します。
その後、肺炎を発症して重篤な状況に陥りました。
そして、乾酪性肺炎により亡くなります。
まだ24歳という若さです。
人見絹枝の両親は娘の危篤の報せを受け病院に駆けつけますが、生きているうちに会うことは叶いませんでした。
病院に向かう途中のラジオ放送で、その死を知ったといわれています。
「人見絹枝」の死に様の信憑性
人見絹枝の死因は乾酪性肺炎ですが、これは結核の一種です。
結核は当時不治の病と恐れられていて、日本人の死因の第一位でした。
まとめ
人見絹枝は晩年忙しい日々を送っていましたが、病に倒れてしまいます。
結核を患い、24歳という若さで亡くなりました。
アムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得してから3年後のことです。