新撰組局長「近藤勇」の晩年とは?
この記事では徳川家茂の死に際、そして晩年について解説していきます。
「近藤勇」とは?簡単に説明
近藤勇は言わずと知れた新撰組の局長であり、名前を知らない方は少ないと思われます。
歴史上の近藤を知らなくとも、彼を由来にしたキャラクターはアニメや漫画でも多数存在し、沖田総司、土方歳三と並び現代にも確かな痕跡を残している人物でしょう。
現代に残る近藤勇の人物像は人格者であったと評価されることが大多数。
しかし幕末の史料では傲慢な振舞いも目立ち、新撰組とともに後世で美化された人物とも言えます。
「近藤勇」の死に様
慶応3年末に狙撃を受け負傷した近藤は大坂城で療養し、肝心要の鳥羽伏見の戦いには参戦できませんでした。
江戸へ帰還後、2月末に幕府から甲州方面での脱走兵の鎮撫(鎮圧)を命じられます。
兵力の補充を行い総勢300人余で甲府城を目指しますが、東山道先鋒総督軍に1日遅れて入城を果たせませんでした。
甲州勝沼の戦いでは練度の違いを見せつけられ烏合の衆に等しい鎮撫隊は壊滅、近藤は敗走を余儀なくされます。
江戸に戻るも古参の永倉新八、原田左之助が近藤に見切りをつけ離脱。
慶応4年4月3日、土方歳三らと会津出立を前に下総国流山で隊を再編成中に新政府軍に身柄を拘束されてしまいます。
土方の献策で偽名を貫き通し逃れようとしますが、元隊士かつ御陵衛士で近藤を襲撃した経歴のある加納鷲雄らが看破。
同年4月25日“浮浪の者の頭”として刑場でもない道の傍らで斬首されその生涯を終えました。
享年35、斬首後に獄門を受けて京都三条大橋下河原でさらされた記録が残っています。
「近藤勇」の死に様の信憑性
近藤勇が新政府軍に包囲され投降する件がやや記述の違いがありますが、総じて死に様の信憑性は高いと言えるでしょう。
ただし近藤の死から月日が流れ、新撰組が再評価、美化されるようになると記述内容に少しずつ変化が見られるようになっていきます。
例えば“浮浪の者の頭”として土佐藩の勤皇派の谷干城の意見で近藤の始末が行われていますが、実は正式な刑場では行われていません。
浮浪の者の頭としての処断で道の傍らで斬首は行われたのが真実の記載です。
その後京都での晒し首、獄門は晒された様子を描かれたものが実在しています。
「近藤勇」のおかげて助かった土方歳三?
流山の屯所で包囲された時には近藤勇と土方歳三、幹部の数人しかいない状況でした。
土方はここで堂々とブラフを通し抜き、当方は幕府の鎮撫隊であると説明。
武装解除した後に代表の大久保剛が武器を渡しに出頭すると丸めこみます。
出頭を要請した有馬藤太は大久保の正体に気づいてはいませんでしたが、越谷の新政府軍本部でその正体が割れてしまいます。
戻った兵の証言から悟った土方は勝海舟に助命嘆願を請った後に幕府軍大鳥隊に合流、隊士は会津に向けて出立させました。
近藤が偽名を板橋に連行されても貫いたことで時間稼ぎができ、土方含め多数の命が助かったと言えるでしょう。
まとめ
近藤勇は新撰組局長だったため、多方面から怨みを買い、道端での斬首のあと京都で獄門の極刑を受けました。
近藤が救ったのは土方歳三と流山にいた隊士だけのように思われがちです。
しかし近藤が京都に移送されず、あっさりと斬首されたことにより、勝海舟や山岡鉄舟ら谷干城に疑われていた人物の命も間接的に救ったとも言えるはずです。