「大塩平八郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大塩平八郎」の死に際とは?日本の人物

大塩平八郎は、江戸幕府に対する反乱を起こした人物として知られています。

大塩平八郎の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

大塩平八郎とは?

大塩平八郎は、代々大坂町奉行所で与力を務めるの家に生まれます。

父母を亡くしたため祖父に養育されました。

13歳頃から町奉行所に出仕するようになり、25歳で与力職につきます。

また、独学で陽明学を学び、洗心洞という塾を開きました。

跡目を譲って隠居した後は学業に専念し、洗心洞では弟子に陽明学の指導を行っています。

大塩平八郎の晩年

大塩平八郎の晩年に起きたのが、天保の大飢饉でした。

天保4年に始まり、天保10年頃まで続いた大飢饉です。

洪水や冷害によって大凶作となり、貧しい農民の中では餓死した人も多かったといわれています。

大阪でも米の価格が急騰しました。

深刻な米不足の状態に陥ったからですが、豪商たちが米を買い占めたことにより価格が急激に上がったという事情もあります。

大塩平八郎はこのことに心を痛め、町奉行であった跡部良弼に米の価格を安定させるための方策を進言しますが受け入れられませんでした。

大阪でも餓死者が多数出ています。

大塩平八郎の最期

大塩平八郎は人々が飢饉に苦しむ中、米を買い占めて利益を追求する豪商やそれを静観する幕府にも怒りを感じていました。

そして武装蜂起することを決意します。

武装蜂起して奉行所を攻撃することや豪商を焼き討ちすることを考えていました。

家財道具を売り払い、大砲や爆薬などを用意します。

この頃日本では、百姓一揆や打ちこわしが多発していました。

家族に類が及ばないように、離縁もしています。

洗心洞の門弟たちを中心に、近郊の農民たちにも働きかけました。

その計画には奉行所の役人も何人か加わっていたのですが、そのうちの一人が密告したことで大塩平八郎の計画は露見します。

そこで大塩平八郎は予定を早めて決起し、豪商の家を攻撃しました。

大砲や火を放ったので火事となり、それが広がって大阪の街では7万人もの人が焼け出されたといいます。

結局、大塩平八郎の乱は半日程で鎮圧されましたが、火災は翌日まで続きました。

大塩平八郎はその後、しばらく大阪周辺に潜んでいましたが、潜伏しているのがばれてしまいます。

役人に囲まれる中で、大城平八郎は自害しました。

享年45です。

大塩平八郎をめぐる逸話

大塩平八郎は非常に正義感が強く、与力の職にあった時にも賄賂などの不正を嫌ったといいます。

汚職の摘発も行っており、与力としては高く評価されました。

天保の大飢饉の際にも、5万冊もあった蔵書を売り払ってお金にし人々のために使っています。

しかし、武装蜂起したことで火災が広がり、自らが救おうとした貧しい人たちがより苦しむことになったのは皮肉としかいいようがありません。

まとめ

大塩平八郎は町奉行所の与力を引退した後は、私塾を開いて学業に専念していました。

天保の大飢饉が起き、米を買い占める豪商や町奉行所に対し武装蜂起を起こします。

しかし、半日で鎮圧され、その後自害しました。

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