「大内義隆」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大内義隆」の死に際とは?日本の人物

戦国大名の「大内義隆」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「大内義隆」とは?簡単に説明

「大内義隆(おおうちよしたか,1507年~1551年)」とは、大内義興の嫡男で「周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前」の守護として、大内氏最大の版図を実現した戦国大名です。

「大内義隆」は父・義興が病死した後に22歳で家督を継ぎました。

天文5年に大宰大弐に任命された義隆は、少弐資元(しょうにすけもと)を滅亡させ北九州を奪いました。

天文10年には尼子氏の勢力を撃退して安芸も治めます。

しかし、次第に文治主義に傾いて武断派の陶隆房(陶晴賢)と対立して謀反を招きました。



「大内義隆」の晩年

「大内義隆」は出雲遠征で尼子晴久に大敗した「月山富田城の戦い(1542年)」から軍事的野心が衰えます。

義隆はザビエルにキリスト教布教を許可して、中国・朝鮮・西洋の文物も輸入しながら、公家的で贅沢な「大内文化」が爛熟しました。

「文治主義」に傾いて文治派の相良武任(さがらたけとう)を重用したため、武断派の陶隆房(すえたかふさ)・内藤興盛(ないとうおきもり)との対立が深まりました。

陶隆房は謀反後に、「陶晴賢(すえはるかた)」も名乗っています。

天文20年(1551年)の8月、「相良武任暗殺計画の露見」によって大内家内での居場所を失っていた武断派の重臣・陶隆房がついに謀反を起こしました。

陶隆房と信条を同じくする長門守護代の武断派・内藤興盛も同調していたため、義隆を助ける動きを見せませんでした。

陶隆房に攻め込まれた義隆は津和野の吉見正頼(よしみまさより)に援軍を頼もうとしましたが、暴風雨(台風)が吹きすさぶ悪天候のため果たせませんでした。

義隆は重臣・冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)らと共に、少人数で長門深川(山口)の大寧寺に立て籠もって防戦することになりました。



「大内義隆」の死に様

「大内義隆」は武断派の家臣である陶隆房(陶晴賢)が謀反を起こした、「大寧寺の変(1551年)によって死地に追い込まれました。

大内義隆・大内義尊(よしたか)・冷泉隆豊らは追われて、長門の大寧寺に立てこもって戦いましたが、義隆らの約2000に対して隆房の軍勢は約5000~1万でした。

大内義隆らの軍は逃亡兵も多くて勝ち目はなく、ついに大寧寺で9月1日の10時頃に義隆は冷泉隆豊の介錯を受けて自害・切腹しました。

享年45歳。

義隆の嫡男である大内義尊も9月2日に捕縛されて殺害されます。

西日本最大の大名といわれた周防大内家は、陶隆房の反乱によって滅亡させられたのです。

「大内義隆」の死に様の信憑性

「大内義隆」は天文20年(1551年)の8月20日に、重臣の陶隆房・内藤興盛に謀反を起こされて、のんきな対応をしている間に、多勢に無勢で攻められて大寧寺に追い込まれました。

大内義隆がいわゆる「大寧寺の変」で自害・自殺(冷泉隆豊の介錯を受けての切腹)したのは史実の事件として残っているため、その死に様の信憑性は高いと言えるでしょう。

まとめ

「大内義隆」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「大内義隆」は、家臣の陶隆房(陶晴賢)に謀反を起こされて、長門深川(山口)の大寧寺で自害しました。

「大内義隆」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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