「長尾晴景」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈
「長尾晴景」とは?簡単に説明
長尾晴景は越後守護代・長尾為景の子として生まれ、主君の上杉定実の偏諱を受け、定景と名乗っていました。
ついで12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴景と名乗るようになりました。
31歳の時に家督を継ぎましたが、それからわずか8年で弟に譲り渡し隠居しています。
その弟とは“越後の竜”上杉謙信でした。
長尾晴景は上杉謙信の兄、そして“THE下剋上”ともいえる長尾為景が父、あるいは嫡男と呼ばれる方が多く、またすんなりくる方が大多数だと思われます。
「長尾晴景」の晩年
31歳、1540年9月13日に父である長尾為景から家督を譲り受けます。
近年になって高野山清浄心院から「越後過去名簿」の写本が見つかっており、為景の没年の再検証がされ、2年は父が実権を握る傀儡だった可能性が高いようです。
実質6年の晴景の越後統治は厳しい困難の連続だったと言えるでしょう。
豪族に対して緩和政策を取っていたものの、父・為景が没すると揚北衆、上田長尾氏、上条上杉家など反長尾運動を再開します。
これに加え天文の乱の影響で国内は乱れ、晴景に心休まる日はなかったでしょう。
さらには黒田秀忠が謀反を起こし、弟である長尾景康、長尾景房は誅殺されます。
この反乱は窮地を切り抜けた景虎によって抑えられたものの、景虎は越後各地でその武勇を見せて台頭。
期中最後の2年は弟の影に追われ、それが不協和音を産み、家中分裂の危機が迫るなか上杉定実の仲介により、1548年12月家督を影虎に譲り渡し38歳の若さで隠居することになりました。
またこの時に不仲と言われていた弟の影虎を養子として迎えいれています。
「長尾晴景」の死に様
「越後過去名簿」のような新たな第一次史料が発見されない限り、長尾晴景は病弱ゆえに1553年3月23日没、享年42、具体的な死因は不明のままと思われます。
「長尾晴景」の死に様の信憑性
上杉謙信の兄、そして先代の当主だったにも関わらず晴景の死について書かれた資料が少ないため、死に様に関してはあまり知られていないのが現状でしょう。
病弱という評価に関しても鵜呑みにはできないところです。
「爰元無油断療治、早々平癒可心安候」これは1543年の晴景の書状に書かれていた文章で病状について具体的には書かれたものはではありませんが体調を崩していることが明らかにされています。
1543年といえば父を喪い、嫡男猿千代が早逝、天文の乱はもちろん越後の国内情勢が悪化と心が休まる日は晴景にはなかったでしょう。
戦よりも芸事を好んでいた人柄を考えれば多大なストレスが晴景にはあり、それで体調を崩した可能性も否めません。
まとめ
長尾晴景は病弱かつ軟弱な当主だとして描かれることが多く、特に謙信を主役にした創作物ですと暗愚、酒、女好き、病弱、求心力がないなど散々たるものです。
しかし人気、知名度ともに圧倒的な弟の上杉謙信ですら、史料が少なく歴史像は武田信玄や北条氏康といった同世代の戦国大名と比較するとかなり薄く、実像が見えてきません。
それゆえにその兄である長尾晴景の実像もはっきりしないのが実のところでしょう。
近年では再評価の動きがあり、緩和政策が実はかなりの効果を生んだ、晴景もまたクーデターで父を隠居させ政権を奪ったなどとも言われはじめただけにまだまだ謎の多い武将だといえ、研究が待たれるところです。