「山本美香」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「山本美香」の死に際とは?日本の人物

女性ジャーナリストのシンボリック「山本美香」の散り際とは?

この記事では山本美香の晩年と最期について解説します。

「山本美香」とは?簡単に説明

前職を退職後、フリーを経て、1996年からジャパン・プレスに所属。

イラク戦争、アフガン内戦など危険な紛争地域に赴き、取材を敢行しています。

国際的にもその活動は高く評価されていました。

リポーターとしても『NNNきょうの出来事』で活躍。

また戦場で見たこと、感じたことを文章としてもキチンと残しており、書籍として出版もしています。



「山本美香」の晩年

現地に赴くだけではなく、そこで見たこと、感じたことを後進に伝えるべく早稲田大大学院政治学研究科の非常勤講師を2008年から務め、母校の都留文科大学でも臨時講師として教壇に立っています。

2011年からはじまったシリア内戦は空爆も激しいものがあり、多くの民間人に死傷者も出るなど、苛烈さは増しており、実状を報道するため12年8月14日にトルコを経てシリアに入国しました。



「山本美香」の死に様

12年8月20日、入国から約1週間が経過。

北部の都市アレッポのサラディン地区へ向かう途中のスレイマン・ハラビ地区で救助活動を取材するため徒歩で移動。

ここで前方から来た民兵組織シャビーハの兵士に強襲されました。

首、右腕の銃創とズボンが真っ赤に染まるほどの大量出血があったと言われます。

遺体が日本に搬送、司法解剖の結果は後方から銃弾を首に受けて頸髄を損傷したのが致命傷になったとされます。

45歳没。

「山本美香」の死に様の信憑性

頸髄損傷が致命傷になったと言われるも実際には銃創は9箇所、複数方向から撃たれています。

また反体制軍の公開した動画では腕の損傷は見るに耐えかねるほどで、何処の傷が致命傷でもおかしくはありませんでした。

銃撃戦の初弾で倒れたとされ、同行していた「佐藤和孝」氏は前方からきた集団の中に緑のヘルメットを被った男がいたため、政府軍だと判断して退避行動をとったそうです。

些細なことですが、そこが生死の狭間となったのかもしれません。

山本氏の持っていたカメラでは銃の発砲後、画面が下に向いて映像が止まっているため、初動で致命傷を受けた可能性が高く、佐藤氏は即死だったのではないかと推測しています。

スレイマン・ハラビ地区まで同行した運転手は、自由シリア軍の部隊長が危険だと警告したことで、車内でジャーナリスト組の帰還を待っていたそうです。

ドラム缶の陰に隠れたが後ろから撃たれたとの証言もあり、銃撃戦のさなか故に真偽は不明。

佐藤氏以外の同行していた記者も銃撃で死亡しています。

まとめ

「山本美香」はシリア内戦取材中に同国北部アレッポのサラディン地区からスレイマン・ハラビ地区に向かう途中に政府軍もしくは民兵組織シャハーフと遭遇。

30メートルとも50メートルとも言われる至近距離から銃弾を浴び死亡しています。

2012年8月20日のことでした。

司法解剖後、頸髄損傷が致命傷と報道されました。

しかし現地で自由シリア軍が彼女の死を発表した時に一部映像で病院の遺体も映ったものが流されています。

それは損傷の激しさがひと目でわかるものでした。

右腕だけでも致命傷になりえるほどの負傷をしたのは間違いないでしょう。

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