狡猾に戦国時代を渡り歩いた「姉小路頼綱」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「姉小路頼綱」の生涯や最期について分かりやすく解説していきます。
「姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)」とは?簡単に説明
「姉小路頼綱」とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて存在した戦国武将、及び戦国大名、公家です。
「姉小路頼綱」と彼の一族は、もともと「三木(みつき)氏」であり、当初「三木」姓を名乗っていました。
飛騨国司の「姉小路家」は、「古川氏姉小路」、「小島氏姉小路氏」、「向井氏姉小路氏」と3つに分裂して争っていました。
「三木良頼」はこのうちの「小島氏姉小路氏」と好友関係を築いており、他の姉小路2家を攻め滅ぼします。
その後、姉小路家に取って代わって飛騨国司となった「三木良頼」は、後顧の憂いを断つために「姉小路家」の乗っ取りを画策します。
「古川氏姉小路家」へ嫡男の「三木自綱(みつき よりつな)」(後の姉小路頼綱)を送り込み、「三木自綱」は古川氏姉小路家継承を朝廷より認められます。
その後、「三木良頼」は「姉小路嗣頼(あねがこうじ つぐより)」へ、「三木自綱」は「姉小路頼綱」へ名を改めました。
「姉小路頼綱」が娶ったのは「斎藤道三(さいとう どうざん)」の娘でした。
この「斎藤道三」が、「織田信長」の正室「濃姫(のうひめ)」だったことから、後に「姉小路頼綱」も「織田信長」の親族として扱われました。
この関係が「姉小路頼綱」の後の運命に大きく影響します。
「織田氏」に接近して同盟関係を築いた「姉小路頼綱」でしたが、天正10年(1582年)に「本能寺の変」が起こり、「織田信長」が討死します。
この混乱に乗じて、飛騨でも騒乱が勃発しますが、「姉小路頼綱」はこの機に乗じて、一帯の敵対勢力を滅ぼし、飛騨一国をまるごと手中に収めました。
その後、「織田氏」の後継を争って「羽柴秀吉」と「柴田勝家(しばた かついえ)」のあいだで「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」が起こります。
もともと「柴田勝家」や「佐々成政(さっさなりまさ)」らに与していた「姉小路頼綱」でしたが、両名は「羽柴秀吉」に敗れてしまいます。
「姉小路頼綱」も、秀吉軍と飛騨の旧敵対勢力から攻撃を受け、籠城戦を展開した末に降伏します。
「姉小路頼綱」の最期
降伏した「姉小路頼綱」は、公家であり、かつ「織田信長」の親族であったことから「羽柴秀吉」より助命され、京都に幽閉されます。
仏門に入った後、天正15年(1587年)に死去し、「姉小路氏」は滅亡します。
享年47歳でした。
「姉小路頼綱」の死に様の信憑性
京都にて幽閉されましたが、公家としての扱いを受けたようですが、詳細な死因に関してはあきらかにされていません。
まとめ
「姉小路頼綱」とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて存在した戦国武将、及び戦国大名、公家です。
「本能寺の変」後の情勢により「羽柴秀吉」と敵対した末に降伏しますが、公家であったことや「織田信長」と親族関係であったことから助命されました。
京都に幽閉された後、その地で没します。
享年47歳でした。