「別府晋介」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「別府晋介」の死に際とは?日本の人物

別府晋介は西南戦争の折、西郷隆盛の介錯を行った人物として知られています。

別府晋介の最期は、西郷隆盛と同様に壮絶なものでした。

その晩年と最期について紹介します。

別府晋介とは?

別府晋介は、薩摩藩士であった別府十郎の次男として誕生します。

戊辰戦争では、薩摩軍の分隊長として東北地方で転戦しました。

明治維新後には陸軍に入隊します。

明治2年に薩摩常備隊が作られた時に、小隊長となりました。

そして西郷隆盛が廃藩置県のために上京すると、それに従って御親兵に組み入れられます。

陸軍で少佐にまで昇進しますが、西郷隆盛が征韓論に敗れて下野したため別府晋介もその地位を投げうって帰郷します。

鹿児島で私学校が創設されると、その運営に携わりました。

別府晋介の晩年

1877年、日本国内最大の内乱と言われる西南戦争が勃発します。

西南戦争は鹿児島の私学校を中心とする士族たちが、西郷隆盛を盟主にして起こした反乱です。

明治維新後、近代化を推し進める政府は廃刀令や秩禄処分などを断行しました。

士族の生活は一変し、今までの特権を奪われたことになります。

経済的にも大きなダメージを受けたのが士族でした。

西南戦争において別府晋介は先鋒となり、独立大隊を率いて熊本に向かいます。

別府率いる独立大隊が、熊本鎮台の偵察隊と遭遇し戦ったのが西南戦争の始まりです。

その後、政府軍と西郷軍は各地で激戦を繰り広げますが、敗北が続いて鹿児島の城山に立てこもることになります。

別府晋介の最期

1877年9月24日、城山に籠る西郷軍に対して政府軍は総攻撃を行います。

被弾する者が続出し、西郷隆盛も銃弾を受けて負傷しました。

その時、別府晋介も負傷していました。

西郷が別府に「晋どん。

もう、ここでよか」
と言ったといいます。

それはここで切腹しようという言葉でした。

西郷が居住まいを正し、拝礼すると別府はそこで西郷を介錯しました。

別府は、「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んだといいます。

そして、その場で自決しました。

享年31でした。

別府晋介をめぐる逸話

別府晋介は陸軍にいた当時、西郷隆盛から満州及び朝鮮の偵察を任されています。

2か月近くにわたって現地を偵察してきました。

戻ってくると仲の良かった従兄弟である桐野利秋の元を訪れ、自分に二、三の中隊があれば朝鮮を軽々と蹂躙できるといった話をしたといわれています。

別府晋介は剣の達人であったようなので、よほど自分に自信があったのでしょう。

剣の達人であったことから、西郷隆盛の最期にも介錯を任されたと考えられます。

介錯で首を刎ねる時には皮一枚を残すのが礼儀とされるので、高い技術を持った者しかできません。

また、別府晋介が西郷を介錯した時の刀は現存しており、貴重な歴史の資料となっています。

まとめ

別府晋介は西南戦争において、覚悟を決めた西郷隆盛の介錯を務めました。

その場で別府も自決しています。

享年31でした。

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