不運な事故?それとも人災?
 カムチャツカに消えた「星野道夫」の散り際とは?
 この記事では星野道夫の晩年と最期について解説します。
「星野道夫」とは?簡単に説明
 アラスカの大自然に魅了され、それを伝え続けたのが星野道夫だと言っていいでしょう。
 19才の時にアラスカに渡って以降、多くの写真や文章を残しています。
 写真家としての処女作は1985年に出版された写真集のタイトルは『GRIZZLY』。
 6年に渡り灰色熊の親子の様子を描いたものになりました。
 しかし自身の最期と因縁めいたものがあるようにも思えてなりません。
「星野道夫」の晩年
 1989年に「週刊朝日」で連載開始された『Alaska 風のような物語』は90年に第15回木村伊兵衛写真賞を受賞。
 翌91年には写真集として出版されるとともに東京、札幌を中心に写真展を開催。
 私生活でも93年には結婚し、充実した日々を過ごしていたのは間違いないでしょう。
 95年には『ノーザンライツ』『森と氷河と鯨』が「新潮社」「世界文化社」で連載が開始され、文才を遺憾なく発揮していました。
「星野道夫」の死に様
 1996年8月8日、ロシア・カムチャツカ半島南部のクリル湖畔にてテントで野営していたところをヒグマの襲撃を受けました。
 就寝中のところを寝袋から引きずり出され、そのままヒグマに森へと連れ去られています。
 その後、捜索隊がヒグマを発見し、射殺するも時既に遅し。
 ヒグマに食い散らかされた無惨な姿で発見されることとなりました。
 43歳没。
「星野道夫」の死に様の信憑性
 当時星野氏が「この時期のヒグマは鮭を食べるから襲ってこない」とガイドが小屋に泊まるように説得しても取りあわなかったと報道がありました。
 これにより自身の経験則による過失で自己責任であると言った声も世間の風潮として強く見られました。
 その一方で星野氏らの友人がTBSに公開質問状を提出。
 ガイドや現場に居合わせた米国人写真家との証言が違うこともあり、実はテレビ番組の放送都合による人災なのでは?という声も少なからず挙がっています。
 その後、死亡してから10年が経過して新事実が判明。
 星野氏の友人「小坂洋右」氏らによって、ヒグマが事前に地元テレビのオーナーによって餌付けされた個体だと明かされました。
 また企画は星野氏の持ち込んだとされています。
 しかしヒグマが野生でないことを知っていたのならば、その危険性は星野氏も理解していたのでは?と疑問は深まるばかり。
 人災の様相を呈してきましたが、死人に口なしとはこのことで真相は闇の中と言っていいでしょう。
まとめ
「星野道夫」は2006年8月8日午前4時頃、テント野営、寝袋で就寝中のところをヒグマに襲われ、森へと消えました。
 その後ヒグマは射殺され、森から無惨に食い散らかされた遺体が発見されています。
 死因は断定されていませんが、出血死、ショック死の可能性が高いと思われます。
 44歳没。
 死後10年経過してから、襲ったヒグマが事前に餌付けされていたことが判明。
 人災の疑いも大きくなりましたが、星野氏の持ち込み企画かつ当人が亡くなっていることから、その死に様にはまだ多くの謎が残っていると言えるでしょう。



