「児玉源太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「児玉源太郎」の死に際とは?日本の人物

児玉源太郎は明治時代に活躍した陸軍軍人で、日露戦争では総参謀長として日本の勝利に貢献しました。

その晩年と最期を紹介します。

児玉源太郎とは?

児玉源太郎は、徳山藩士であった児玉半九郎の長男として誕生します。

1868年に徳山藩の献功隊に入隊し、戊辰戦争では東北や函館における戦いに参加しました。

明治維新後は陸軍に入隊し、佐賀の乱や神風連の乱など相次ぐ士族反乱の鎮圧に尽力しています。

西南戦争が勃発すると熊本籠城戦に参加し、司令長官の谷干城の元で熊本城を守り抜くなど活躍を見せました。

1885年には参謀本部第一局長となり、陸軍次官や台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣等の役職を歴任しています。

陸軍大学校の校長も兼任しました。



児玉源太郎の晩年

児玉源太郎の晩年に起きた大きな出来事といえば、日露戦争です。

児玉は軍略・知略に長けた軍人でしたが、その能力が最大限に発揮されたのが日露戦争でした。

日露戦争において児玉は、満州軍総参謀長を務めています。

陸軍の作戦指導の責任者として、総司令官の大山巌を補佐しました。

児玉は単に軍事的な作戦を立案するだけではなく、政治と外交も一体化した作戦を推し進めます。

戦争の早期終結を実現するため、アメリカを仲介役に軍事作戦を手段として講和を実現することを目指したのです。

児玉の軍事作戦は樺太やウラジオストクに攻勢をかけることでロシアに打撃を与え、ロシアに講和を促すというものでした。

また、情報戦を制するため、秘匿性の高い海底ケーブルを敷設するなど情報収集にも積極的でした。

それから日露戦争が開戦する前には、軍事資金を調達するための活動も行っています。

著名な実業家であった渋沢栄一を訪ね、資金の調達に関して粘り強く交渉しました。

そのような児玉の努力も実り、日本は日露戦争で勝利を収めることができたのです。



児玉源太郎の最期

児玉源太郎は日露戦争が終結した翌年、自宅において就寝中に急死してしまいます。

死因は脳溢血でした。

享年55です。

児玉源太郎とメッケル

児玉源太郎は、陸軍大学校の初代校長でもあります。

ドイツの陸軍将校メッケルを教官として招き、ドイツ式の戦術を日本軍に導入しました。

また、メッケルとの出会いは児玉にとっても大きな影響を与え、学生と共に熱心に講義を受けたといいます。

頭脳明晰で快活な性格だった児玉をメッケルも高く評価しており、日露戦争が始まった時にドイツの新聞記者に対して児玉がいるから日本が勝つといった言葉を残しています。

児玉源太郎をめぐる逸話

児玉源太郎は身長が低く、155㎝程しかなかったといいます。

しかし、器の大きな人物で、周りの人からは絶大な信頼を得ていました。

己の利益よりも国益を何よりも優先したといいます。

まとめ

児玉源太郎は晩年、日露戦争で総参謀長として日本の勝利に大きく貢献しました。

その翌年、自宅で就寝中に急死してしまいます。

死因は脳溢血でした。

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