「吉田松陰」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「吉田松陰」の死に際とは?日本の人物

革命家?思想家?教育家?「吉田松陰」の晩年とは? この記事では吉田松陰の死に際、そして晩年について解説していきます。

「吉田松陰」とは?簡単に説明

吉田松陰は思想家や教育者として評価されていますが、元々は天性の兵法家だったと言え、なんと9歳で日本三大学府の明倫館で講師を努めています。

11歳で藩主毛利慶親に御前講義、15歳の時に山鹿流、長沼流の二大兵法を学び当代一の軍師となることは間違いないように思えました。

しかしアヘン戦争で清が英国の近代部隊になすすべもなかったことから、自分の兵法が時代遅れになったと判断潔く認め、遊学に出たことが後年の思想家としての下地を作ったと言っていいでしょう。



「吉田松陰」の晩年

叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を1857年に引き継ぎ、ここでの弟子とのやりとりは生きた学問で屈託ない意見を交わし、弟子を育てていきます。

平穏な日々が終わったのは無勅許で日米修好通商条約を締結した1858年のことでした。

無勅許に怒りを覚えた松陰は半ばテロに近い計画を企てます。

それは要望が通らない場合は老中・間部詮勝を殺害、長州藩主と攘夷派公家を会談させ倒幕する青写真でした。

そこで『草莽崛起論』を唱えるも過激な方針が受け入れられず友人や松下村塾の門弟から孤立。

当然、長州藩からは危険人物として野山獄に入れられることになりましたが、「安政の大獄」により松陰は更なる倒幕に傾倒することになっていきます。



「吉田松陰」の死に様

「安政の大獄」により江戸へと移送された理由、それは梅田雲浜と面識があり、また『伏見要駕策』を考えた二人とも雲浜の門下生で面識があったからです。

幕府は松陰から聴取したかったのはあくまで雲浜と荻で面会した時の会話内容で、長州藩からも多数の付き添いが出仕している松陰を厳罰に処す気はなかったようでした。

しかし松陰は老中・間部詮勝暗殺計画である『間部要撃策』を自白してしまいます。

1859年11月21日伝馬町牢屋敷で執行され、享年30でのことでした。

「吉田松陰」の死に様の信憑性

松陰が自白に至るまでには様々な説がありますが、真の理由はわかりません。

処刑当日に威風堂々と現れた記述が残っている一方で、評定所で松陰が取り乱していたという記述がされた文献もありますが、どちらも真相はわからないと言えるでしょう。

後述は世古格太郎の『唱義見聞録』が元ネタで伝聞のため信憑性が低いと言われてきました。

しかし前述の松村介石に松陰を処刑した7代目山田浅右衛門が話したくだりもそう信憑性は高くないように思えるかもしれません。

理由は松村介石は松陰が処刑された後に生まれており、直接話を聞けたのが20年後以上あとのことだと思われるからです。

長州藩の公用人であった小幡高政が評定所で判決の現場に直接立ちあっており、信憑性の高いのは彼の記述程度のように思えます。

いずれにせよ旧水戸藩主による『吉田松陰伝』、徳富蘇峰の『吉田松陰』も同時期のもので、伝記が出版されたのは四半世紀経過してからでした。

業績に対しての評価が主となり、記憶の風化、美化も加味すると死に際に関しての信憑性は高くないように思えます。

まとめ

明治維新が成功し、吉田松陰は維新に関与した人物を松下村塾で育成したことで評価されていますが、テロリストの側面を持っていたのは間違いないでしょう。

明治維新で多くの門弟が政府に関与したことで松陰は意図的に神格化された部分も多く信憑性に疑問が残るのは事実です。

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