「萩原朔太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「萩原朔太郎」の死に際とは?日本の人物

異常な感覚と病的な神経が評価された「荻原朔太郎」の散り際とは?

この記事では荻原朔太郎の晩年と散り際について解説していきます。

「荻原朔太郎」とは?簡単に説明

2022年が没後80年にあたったことで各地で展示会やイベントが開催され、改めて彼の作品に触れた人は多いのではないでしょうか。

一般的に多くの人が彼の名前を知るのは現国の『小出新道』日本史の『月に吠える』だと思われます。

全般的に重く暗めな詩が多いのが特徴。

これは医者の息子として生まれながら定職に就かなかったことへのコンプレックスや離婚、幼少期に対人関係の構築が不得意だったことが挙げられます。

旧制高校の五高、六高に加え慶大予科への入退学の繰り返しなどはその象徴とも言えるでしょう。



「荻原朔太郎」の晩年

1934年に発刊された『氷島』は日本伝統の古典に回帰した作品となりましたが、古典への回帰に賛否両論の意見を浴びることになります。

また出版後には明大文芸科講師として教壇に立つことになりました。

ひと頃の家庭崩壊と妻が間男と駆け落ちして離婚で荒れた私生活からは脱却できたようでした。

仕事に加え、講演や座談会による多忙な日々が続くと、1938年年始には「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。

日本主義の立場を鮮明に打ち出していきます。

その後も著書を刊行を続けますが、1940年の晩秋から体調に変調を感じとるようになりました。



「荻原朔太郎」の死に様

1942年5月11日、東京都世田谷区代田一丁目の自宅で亡くなりました。

55歳没。

死因は急性肺炎と言われています。

「荻原朔太郎」の死に様の信憑性

40年から41年の晩年に掛けての荻原氏のモノクロ写真は現存しており、写真からでは体調の悪さについて窺い知ることはできません。

最期の様子は多く語られていません。

しかし末妹・愛子氏と結婚した「佐藤惣之助」氏によれば、亡くなる直前まで意識はしっかりとしていたそうです。

長女「荻原葉子」氏は59年に『父・萩原朔太郎』を出版。

その中で晩年は前掛けをつけて食事を取っていた事を明かしています。

食事を零すのは日常茶飯事だったようです。

その描写は死因の急性肺炎は誤嚥性肺炎だったのではないかと思わせるほど。

晩年は肌が色黒く痩せこけて、日常的に疲れが目立っていたとも言います。

体調の悪さから多くの売薬も服用していたようです。

また書斎の机の目立つ場所にキチンと原稿用紙が置かれ「手を触れるべからず」と書いた紙とともに残されていましたが、その書類は晩年嵌まっていた手品のタネ明かしでした。

加入していたマジッククラブの規則で自身の死後は速やかに用紙を破棄することが定められていた事が判明。

死の予感があり、準備をしていたのだと思われます。

まとめ

1942年5月11日、東京都世田谷区代田一丁目の自宅にて死去。

55歳没。

死因は急性肺炎だとされています。

晩年は食欲不振に加え、頬の肉が落ちて顔が黒くなっていたと長女が著書で明かしています。

自宅では度々泥酔していた記載も見られるため、前述の症状だと肝臓も悪くしていたようにも思えなくもありません。

最期の様子は亡くなる直前まで意識がハッキリしていたと義弟の佐藤氏が伝えています。

但し朔太郎氏が亡くなってから4日後に彼も脳出血で命を落としているために、それ以上のことが伝わっていません。

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