「斎藤朝信」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「斎藤朝信」の死に際とは?日本の人物

「越後の鐘馗」とも称され、「七手組」の1人にも数えられる知勇兼備の戦国武将「斎藤朝信」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「斎藤朝信」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「斎藤朝信(さいとう とものぶ)」とは?簡単に説明

「斎藤朝信」は越後上杉氏に仕えた戦国武将であり、「越後の鐘馗(しょうき)」とも称されています。

「鐘馗」とは、元々は中国の民間伝承に出てくる道教系の神であり、日本では疱瘡除けや魔除け、学業成就に効があると言われています。

「上杉謙信」より「七手組」の1人として重用され、武田軍との「第四次川中島の戦い」や北条軍との「小田原城攻囲戦」など主要な各戦に参加し、武功を挙げました。

また、武勇のみならず、政務でも才覚を発揮し、奉行職も兼任していたと記録されています。



「斎藤朝信」の晩年と最期

天正6年(1578年)に上杉家の家督争いに端を発したお家騒動「御館の乱」が起こると、「斎藤朝信」「景勝(かげかつ)」方に付きます。

「斎藤朝信」「景虎(かげとら)」方に与して侵攻してきた「武田勝頼」「景勝」の仲介役を担うなどの活躍を遂げました。

「景勝」が内乱に勝利すると、これらの功績を認められ、天正8年(1580年)に嫡男「景信(かげのぶ)」と父子揃って領地を与えられています。

その後に関する史料は乏しく、越中の魚津城にて、織田軍北陸方面司令「柴田勝家」からの侵攻を退けたのが最後の記録のようです。

天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」の直後、家督を嫡男「景信」に譲り、自身は隠居へ入った後、文禄元年(1592年)頃に死去したとも云われています。



「斎藤朝信」の死に様の信憑性

晩年に関する記録が残っていないため、死因をはじめ没年齢も定かとなっていません。

「武田信玄」との逸話

ある時、「謙信」は室町幕府将軍「足利義昭(あしかが よしあき)」より上洛を要請されます。

「謙信」は上洛の折、後顧の憂いを断つために「斎藤朝信」を交渉役として「信玄」の元へ遣わしました。

「斎藤朝信」は小柄なことや隻眼であったことを「信玄」にからかわれますが、同じく小柄で隻眼な上に、片足が不自由であった「信玄」の軍師「山本勘助(やまもと かんすけ)」を引き合いに出して言い返します。

「信玄」「斎藤朝信」の才気を中国「斉」の名宰相として知られる「晏嬰(あんえい)」になぞらえて評価し、贈呈品を与えた上、「謙信」の上洛に際して侵攻しないことを約束したそうです。

まとめ

「斎藤朝信」「越後の鐘馗」とも称される、越後上杉家臣です。

「上杉謙信」の信任厚く、「七手組」の1人として主要な戦で活躍したほか、奉行職を兼任するなど政務においても手腕を振るいました。

「謙信」の死後も上杉家に仕えますが、晩年に関する詳しい史料はなく、隠居した後に文禄元年(1592年)頃、死去したとされています。

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