チェッカーズ解散後は不遇の人生だった?
「徳永善也」の散り際とは?この記事では徳永善也の晩年と散り際を解説していきます。
「徳永善也」とは?簡単に説明
当時青春時代を過ごしていた人でも「徳永善也」の名前では誰のことかわからない人もいると思います。
しかし『チェッカーズ』の「クロベエ」と表現した場合には世代を越えて、名前と顔が一致する人がほとんどでしょう。
ドラム担当のため、実際のテレビ番組では目立たず、一人だけ簡素化された衣装、Tシャツの時もあり異彩を放っていました。
そのドラムの腕はチェッカーズ結成前から高く評価されており、久留米では有名だったと言います。
しかしチェッカーズ解散後は実力に見合った評価が伴わず苦しむことになりました。
「徳永善也」の晩年
自身がリーダーを務めた『リトルバッハ』を解散後は市井に下り、一般人として生活していました。
当時2ちゃんねるはまだ黎明期のため、ファンの掲示板で情報が錯綜。
広島で独立開業したなどの噂も流れますが、長距離トラックの運転手に就いていたことが明らかになりました。
2002年に「隈富太郎」氏が率いるバンドに加入し、再度音楽の世界に戻ってくると、03年にはチェッカーズの楽器メンバーで構成された『アブラーズ』を結成。
精力的に活動をしていた矢先に病魔に蝕まれることになりました。
「徳永善也」の死に様
2004年8月17日に患っていた舌癌で永眠。
40歳没。
その死を巡ってかつての仲間が醜聞を繰り広げることになるとは思ってもみなかったでしょう。
「徳永善也」の死に様の信憑性
2003年9月のチェッカーズ結成20周年に向けて、楽器メンバー『アブラーズ』の活動再開が決まるもその直後に舌癌に罹患していることが判明してしまいます。
闘病生活については公表されてはいないもの、舌が回らない事に関して自虐ネタを話すなど、務めて明るく振る舞おうとしていたのは間違いないでしょう。
また徳永氏の入院末期時代には既にチェッカーズ解散肯定派と反対派の確執が見え隠れしていました。
「高杢禎彦」「鶴久政治」の両氏に会いたいと徳永氏が筆談で提示。
しかしそれは叶わずに亡くなったとされ、死よりも重い確執という件を鶴久氏が語っています。
また推測できるのは2004年7月23日の「あぶらまつり」には病院を抜け出して参加。
呂律は回らなくなっていたとは1曲を歌い上げています。
このためこの日以降に舌癌の切除をして、喋れなくなったと言えるでしょう。
まとめ
「徳永善也」氏は2004年8月17日に永眠しています。
40歳没。
死因は舌癌によるもので、ちょうど亡くなる1年前に発覚しました。
舌癌は公表されたもの闘病生活については一切公表されることはありませんでした。
葬儀、徳永氏を送る会の両方でメンバー間の確執が見られたこと、また徳永氏の入院末期中の見舞いに関するひと悶着など、最期の様子は今後も表に出てくる可能性は低いと思えます。