武田家をまとめ、乱れていた甲斐を統一するなどの輝かしい功績があるものの、後の乱行により「息子の信玄に追放された男」という印象が強い「武田信虎」の晩年や最期を紹介します。
「武田信虎」とは?簡単に説明
武田信虎は甲斐の守護・武田信縄の嫡男として生まれました。
生年は1494年(明応3年)または1498年(明応7年)と言われています。
当時の甲斐は大いに乱れており、武田家中での争いも絶えませんでした。
武田宗家の家督を継いだ信虎は、数々の戦いを重ねて、武田家そして甲斐を統一しました。
その後も、外勢力と渡り合い、上杉氏や今川氏との同盟を結ぶなどして、甲斐の安定を図りました。
「武田信虎」の晩年
1541年(天文10年)、信虎が娘婿の今川義元と会うために駿河へ向かうと、嫡子の晴信(後の信玄)が国境を封鎖して信虎を隠居させました。
信虎は、そのまま今川家に留まることとなってしまいました。
背景には、「信虎と晴信が不和で、次男の信繁に家督を継がせようとした」「むやみに関心を手打ちにした」「領内で重税を課して民の心が離れていた」など、諸説あります。
いずれにしても、信虎と晴信、信虎と家臣団、信虎と領民の関係が悪化していたことが原因であると考えられます。
「武田信虎」の死に様
しばらく駿河で過ごしていた信虎ですが、武田と今川の関係が悪化すると駿河を離れて、志摩や甲賀などを転々としました。
一説では、織田信長と敵対していた将軍・足利義昭の命で動いていたこともあったと言われています。
1574年(天正2年)、信玄の息子・勝頼に代変わりした武田家の高遠城へ身を寄せ、同年3月5日、禰津常安という人物の屋敷で没しました。
葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われました。
「武田信虎」の死に様の信憑性
武田信虎は、亡くなった日まで記録されているため、亡くなった時期については信憑性が高いと考えられます。
ただ、信虎は禰津常安の庇護下にあったものの、常安の屋敷は高遠にはなかったと言われており、「禰津常安の屋敷で亡くなった」「高遠で亡くなった」いずれかの記録が誤っている可能性があります。
「武田信虎」の小ネタ
信虎が晴信(信玄)に追放された原因は、家臣の手打ちや領民への重税など、数々の乱行が原因であると言われています。
しかし、彼の乱行を記録した一次資料はほとんど無く、甲斐の伝承にもそういった内容は書かれていません。
信虎について悪く書いているのは、江戸時代に記された「甲陽軍鑑」が最初です。
徳川家康が武田信玄や武田の軍略を尊重していたため、信虎追放を正当化するための創作ではないか、とも言われています。
まとめ
武田信虎の晩年や最期について紹介しました。
武田信玄の父でありながら、後世、信玄の敵役のように書かれ、「悪」のイメージが持たれがちな戦国武将です。
しかし、信虎が大いに乱れていた甲斐を治めた実績は間違いありません。
彼が作った土台があったからこそ、武田信玄の飛躍があり、信玄が歴史に大きく名を残すことになったと言えます。