夏の甲子園を象徴するその歌声は永遠に!「伊藤久男」の死に際とは?
この記事では伊藤久男の晩年と死に際について解説していきます。
「伊藤久男」とは?簡単に説明
伊藤氏の名前は知らなくても『栄冠は君に輝く』を歌っている人と言えば、その声は誰もが頭に浮かびあがる事でしょう。
戦前からのスター歌手であり、コロムビア三羽ガラスとしても有名です。
「古関裕而」氏が作り「野村俊夫」氏が詞をつけ、伊藤氏が歌いあげる図式で多くの名曲を輩出。
また戦時中は「藤山一郎」氏とのバリトンの共唱、それとは対照的な「霧島昇」氏とのバリトン・テノールの共唱で数々の戦時歌謡を残しています。
中京圏では『ドラゴンズのうた・青雲たかく』が現在でも根強く唱われている事で有名でしょう。
「伊藤久男」の晩年
戦前からの大スターであり、既に70年代初期には懐メロ、懐かしの歌を特集した番組に登場する事が多かったと言えるでしょう。
実際新曲も60年代から長らく途絶えています。
このため70年代中期以降はテレビで見る機会は少なくなっていました。
それでも1978年には長年の日本音楽界への貢献が改めて評価され、紫綬褒章を受章しています。
「伊藤久男」の死に様
1983年4月25日、東京都中野区の西武沼袋病院にて永眠。
72歳没。
死因は肺水腫によるものでした。
「伊藤久男」の死に様の信憑性
70年代初期の歌番組で戦時歌謡を熱唱する姿がしばしば見られました。
当時の姿は恰幅も良くガッチリとした体型で豪放磊落と言われる人柄を体現しているかの様に思えました。
しかし約10年後の1982年に歌手生活50周年記念かつ日本音楽界の功労者としてレコード大賞特別賞を受賞した際には別人の様な姿でテレビ出演しています。
既に歩行は困難で車椅子に腰掛けたままでのやり取りになってしまいました。
また恰幅の良さは消え失せ、かつての力強さは皆無。
声も掠れ気味で当然伊藤氏の歌声を聞く事は叶いませんでした。
これが最後のテレビ出演となり、ほぼ4ヶ月後に亡くなっています。
まとめ
1983年4月25日、東京都中野区西武沼袋医院にて逝去。
72歳没。
死因は肺水腫によるものでした。
最晩年82年大晦日のレコード大賞特別賞で久々にテレビ出演。
しかしその痩せ衰えた姿は伊藤氏の曲と共に昭和を過ごしてきた人達にとっては衝撃的だったと言えるでしょう。
晩年の様子や死因の肺水腫についてはほとんど語られていません。
しかし元来の酒好きで若い頃から糖尿病に罹患していたのは既知の事実でした。
また70年代は糖尿病治療のためインスリン注射依存に陥ったとも言われます。
晩年は腎臓が糖尿病によって弱っていた可能性が高く、必然的に高血圧になり心臓の負担が増大。
それが肺水腫の原因になったと思われます。