「馬場信春」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「馬場信春」の死に際とは?日本の人物

馬場信春は甲斐の武田家に仕えた戦国武将で、武田四天王の一人にも数えられます。

数多くの合戦に参加しましたが、最後に討ち取られた長篠の戦いまではケガ一つしませんでした。

馬場信春の晩年と最期を紹介します。

馬場信春とは?

馬場信春は、武田信虎・信玄・勝頼の3代にわたって武田家に仕えました。

その生涯において参加した合戦は数知れず、幾度も軍功を挙げています。

武田信玄の初陣となる海ノ口城攻略の際にも、敵将であった平賀玄信を討ち取るなど功績を残しました。

信玄が父である信虎と対立した際には、信虎の甲斐追放にも関わったとされます。

信玄の時代には重用され、様々な合戦で活躍しました。



馬場信春の晩年

馬場信春は武田信玄が亡くなると、跡を継いだ武田勝頼に仕えます。

重臣の筆頭として山県昌景と共に勝頼を支えることになりますが、勝頼からは煙たがられたといいます。



馬場信春の最期

馬場信春は、1575年に長篠の戦いに参加しています。

これは武田勝頼が、三河国の長篠城をめぐって織田信長と徳川家康の軍勢と激突した合戦になります。

武田勝頼の側近が主戦論を主張したのに対して、馬場信春や山県昌景などは撤退を進言したといいます。

形勢が不利な状況であることは明らかで、それを説明しますが勝頼には受け入れられませんでした。

結局、負け戦となってしまいます。

戦線が総崩れとなってから勝頼は撤退を決断しました。

信春は敗軍のしんがりを務め、武田軍が脱出するのを見届けてから討ち死にしたとされます。

享年61でした。

自ら首を差し出したとも、戦闘の最中に討ち取られたともいわれており、その死に様に関してはっきりしたことは分かっていません。

ただし、見事な最期であったと「信長公記」では伝えられています。

馬場信春の出自

馬場信春は、馬場氏の生まれではありません。

甲斐の武川衆の一族の生まれでしたが、武田信玄の命令により馬場氏の名跡を継ぐことになりました。

馬場氏は武田家譜代家老の家柄で、馬場虎貞が武田信虎の不興をかって切腹させられていたので名跡が途絶えていました。

そこで再興するべく、信春が跡を継ぐこととなったのです。

馬場信春をめぐる逸話

馬場信春は、その生涯において70回以上もの合戦に参加したとされます。

戦死する長篠の戦までは、かすり傷一つなかったと言われています。

そのため後世では不死身と呼ばれるようになりました。

築城の名手

馬場信春は、築城の名手でもありました。

武田氏の支城をいくつも築城しています。

深志城や牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城などが挙げられます。

築城に関しては、武田信玄の軍師として名高い山本勘助から手ほどきを受けたとされます。

まとめ

馬場信春は武田家3代に仕え、数多の合戦に参加して武功を数多く挙げています。

長篠の戦いでは武田軍が敗れると、しんがりを務め討ち死にしました。

享年61です。

その死に様は見事であったと伝えられています。

タイトルとURLをコピーしました